10.07.2014

書くことに価値はない

プロ志望の音楽家や小説家の人びとが、いわゆる「普通の人」の仕事を馬鹿にしているのを見ると変な気持ちになる。彼らからすれば、普通の人がしている仕事は無能のするものであり……その仕事に価値はないというわけだ。もっと独創的な、個性を活かせる仕事があるというのに、「普通の人」は安全な領域に落ち着いてしまい、そこで堡塁を築こうとしている、というわけだ。

しかし、ぼくの思うところでは、演奏や物書きはもっとも低次の領域に属する。何しろ、おもちゃの太鼓を叩くくらい赤ん坊でもできる。文章を書くことなら小学校一年生でも可能だろう。彼らが自分のしていることを、芸術敵だとか、文化的だとか思っているのだからぼくは笑ってしまう。書くこと、弾くこと、そんなことに価値はない。コンビニ店員が商品の陳列を整えるような、経理が電卓を叩くような、意地汚い手指の運動でしかないのだ。

じゃあぼくはなぜ音楽を聴くし小説を読むのか?それは、書き手の精神が、演奏家や作曲家の精神がぼくに伝わってくるからである。ストラヴィンスキーの音楽からはストラヴィンスキーの精神を。ゲーテの文学からはゲーテの精神を、というわけだ。ぼくが見ているのは画家の精神であって、鼓膜を通る周波数、規則的・恣意的に油が塗りたくられた厚紙ではないということだ。

優れた精神からしか優れた作品は生まれない。村上隆はたぶんすぐに忘れられるだろう。反対に、草間彌生はその影響力を保ち続けるだろう(個人的にこの二人、同じ現代芸術家だが、どうも格が違うという気がしている)。

優れた精神の持ち主こそ芸術を目指すべきなのだ。ぼくは小手先だけの空っぽの芸術など興味ないし、大方の人間もそうだろう。ぼくが求める芸術家は、酒に溺れ、女に溺れて、自殺してしまうような臆病者ではない。反対に、それでも生き抜くという人間である。運命に翻弄されながら、それでも生きることを、自分の信ずるものを信じ抜く人間である。茨の道を笑って進むような強い人間の芸術である。

創作は個人的な仕事である以上、自己を表現するものでしかない。これはほんと。

優れた精神とはどうやって育つことができるのか。たぶん、孤独と苦悩が栄養になるだろう。筋肉と同じ話だ。マッチョな人は毎日筋繊維を痛めつけている。だから筋肉はモリモリと育つのだ。同じように、偉業を為した人の全てに深い絶望がある。

自分は文弱の徒だから酒を飲んでニートしている……大した働きを見せず、世俗の人を馬鹿にする……そんな人生に大した苦痛はない。楽なのだ。人間は楽な方に落ち着きたがる。しかし、何事にも真剣になるというのが本当の芸術家だと思う。誠実であることだ。痛みも、喜びも真剣に受け取ることだろう。

と、勝手なことを言って今日は寝る。



ずいぶん変なことを今朝言ったと思った。

ぼくにとっては、地に足のついた芸術が向いているのかもしれないと今日思った。毎日決まった時間だけ、コツコツと仕事をする。自分の独力によって成果をあげる。荒削りのものを、緻密に、時間をかけて球に削りあげる。そういった単調なルーチンの中に人生の慰みを得られる気がするのだ。

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