10.29.2014

自己について

二日酔いだった昨日、楽器の練習をしてみると思いの外調子がよかった。適度な神経の麻痺が「こうしよう」という意志の枷を外させる。楽器との関係がニュートラルになり、調和し、楽器はもはや特別な環境物ではなくなって、ぼくの四肢の一部のように自由に鳴ってくれた。

意志の馬具を外すことが重要だとニーチェは言ったが、ぼくもそのように思う。意志とはどこまでも脳の神経回路による稚拙な業である。ぼくは楽器において意志を介在させたくない。意志がはたらくと、「うまくやろう」「うまく見せよう」という気持ちが働いて結果的に不自由になる。

全て芸術は表現である。だから、どう巧妙に表現するかが重要に思われている。とんでもないテクニックの持ち主はたくさんいる。でも、案外「表現したいもの」それ自体のクオリティを上げることには注意が払われない。ぼくらが芸術で表現するものは、普通自己の精神である。その自己を深く掘り下げようという人は希少だ。ハイネは「人間は自分自身のことはいつも嘘をつく」と言ったがその通りで、自分の精神の根っこまで把握している人はほとんどいないだろう。インド哲学や仏教では梵我一如という言葉がある。またキリスト教においても、神=創造主は精神の最奥にあられる、という考え方がある。これは究極的には、自己と世界は同一であるという認識である。西田幾多郎の言ったように、「自己の深さは世界の深さ」なのである。

作品が深化していく、ということがありうる。つまり演奏によって、執筆によって、絵筆を走らせることによって、徐々に自分を深めていく。作品を創るとき、普通ひとは孤独である。演奏家であっても、基本的には練習は独りである。その過程で自己を見つけていく。草間彌生はNYのアパートの一室でひとり、巨大なキャンパスに向かい、トイレと食事の時間以外は延々と「網」を描き続けたという。彼女は何度か発狂しかけ、救急車で運ばれた。自己を知るという過程は危険な冒険であると思う。狂気の臨界点の近くでなければよい作品は描けないし、自己は発見できないようである。

音楽家でも、技巧的にはアマチュアレベルだが感動させる演奏をする人はいる。天才的な技巧を持っていて、素人を喜ばせるが、通人から見れば上滑りの皮相的演奏、という人もいる。英才教育によって天才的な音楽家は爆発的に増えた。特に中国や韓国の優れた演奏家はたくさん生まれている。小学生でありながらショパンだかバッハだかのエチュードをマスターし、十五歳でカーネギー・ホールで演奏するような。しかし、天才的な技巧が必ずしも成功を生むとは限らない。やはり芸術とは表現であるから、自己の芯を持ってない限りは凡庸な演奏家でしかないのだ。

結論を言えば、自己を知り、そして世界を知り、知性を身につけた優れた人間であることが芸術においても必要なのである。優れた芸術家はすべて、優れた人間である。ぼくはそのように思う。病跡学においては、偉大な芸術家や哲学者のほとんどは精神に異常をきたしていた、と言われている。そのことが、人間の欠陥と無能力さを示すのではない。彼らは確かに鋭敏な神経をもって生まれた。そのことは彼らを生きづらくさせた。しかし、彼らは不幸に屈服することなく、自己から目を逸らさず、強靱な知性と理性によって仕事を成し遂げた。そこに偉大さがある。彼らが精神の異常性を持っていたことが偉いのではない。「凡庸な狂人」はいつの時代でも、たくさんいる。問題はその壁を乗りこえられるかなのだ。

インド哲学の聖典、ギーターでは人間を三種類に分けている。「バラモン(司教)的」「戦士的」「市民的」な人間である(これはカースト制度の由来にもなっている)。戦士的な人は、勇敢に戦い、死を怖れてはならない。市民的である人は、調和的に生き、暖かな家庭を築かねばならない。バラモン的な人は、知恵を求め、真理に到達せねばならない。以上はぼくの勝手な解釈なので、間違いもあるだろうが概ねそんなところだろう。

哲学者、芸術家はバラモン的な素質を生まれ持ったと考えることができる。彼らを偉大たらしめるのは、彼らが少なからず真理に近づき、その生まれ持った使命を全うしたからである。

ぼくもバラモン的な素質を持っているという自負がある。こういう人の神経は鋭敏であり、ときに精神異常を起こす。しかし、ぼくは自分の運命を多少は把握している。だからもはや市民的であろうとは思わないし、戦士的である必要も感じない。それは市民をバカにしたり、戦士を軽蔑するということではない。戦士的な人が戦士的であるとき、それはバラモン的な人がバラモン的であるのと同様に美しい。

自己の探求の第一歩は、自分の役割を知ることだろう。そのためには、最初に言ったように、意志の馬具を外し自由になることが必要なのである。都市の喧噪の中では、精神の内奥の声はかき消されてしまう。外国へ一人旅をしたり、瞑想でもすれば良いと思う。そして本当の自分に出会い、「覚醒」するのである。自分探しという言葉はバカにされることも多いが、ぼくは良い言葉だと思う。長くなったのでこの辺で。

われわれの課題は目覚めていることに他ならない。ニーチェ
肉体労働をやれる程度に目覚めている人間ならいくらでもいるが、知性を有効にはたらかせることができるほど目覚めている人間となると百万人にひとりしかいない。詩的な人生、神聖な人生を送れるほど、となると一億人にひとりくらいのものだ。H. D. ソロー
精神的目覚めの炬火がもえるとき、窟中の暗はそのまま悟りの明となる。鈴木大拙

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