10.14.2014

誠実さについて

赤子は積み木を組み上げる。ひとつひとつ慎重に。彼は秩序立った積み木のできばえに満足するが、それは長く続かない。積み木は簡単に崩れてしまう。彼が不注意に手を伸ばしたときに、彼が他のおもちゃに気をひかれ、歩き出したときに。あるいは彼が辛抱強く見守っていたとしても、母親が帰ってきたらそれを片付けてしまう。積み木は必ず崩れる。

人の生も似たようなものだ。人は必ず死ぬのだから。大事なのは、その生に意味があるのかどうかだ。人生を形作るのは意味であり、もはや生に意味を感じられないとしたら、人は狂気に逃げ込むか、自殺するかしかなくなってしまう。ぼくらはそう遠くない未来に自分が死ぬことを予見しているが、それならどうして今生きているのか、と問うことは的外れではない。

何かしらの意味はあるはずだ。赤子は積み木が崩れることをいつか悟るが、それでもやめることはない。彼が木片を積み上げる運動をやめるのは、ただひとつ、もっと大きなものを積み上げるときである。



人間を理性的動物たらしめるものに、「誠実さ」があると思う。この誠実さが最近のテーマになって、ぼくのあたまをぐるぐる回っている。結論としては、誠実さとは、やるべきことをやり、不要なことをやらない、ということから生まれてくるのではないかと考えている。

優れた芸術品にも同じことが言えるだろう。やるべきことをやり、不要なことをやらない作品はだれしもが愛し求めるものだ。

ぼくは今けっこう忙しい仕事に追われているが、そうした中でかえって自分は誠実になれているという気がする。仕事をして、休むだけの日々の中で、ぼくはどんどん誠実になっていく。下劣な誘惑は時間の無駄として切り捨てることができる。

人間には、仕事に圧迫されることが必要なのかもしれない。仕事もなく、完全な自由の身に置かれると、かえって大気の中に霧散してしまうような心許なさを覚えるものだ。ぼくらの外形を与えるのは労務のような圧力であり、それに幾ばくかの対抗的な力を加えることによって、ぼくらは自分のアイデンティティを創り上げる。ドゥルーズだったと思うが、「その人間的な本質において、人間とはひとつの反動的な存在である」と。



しかし、最近は過労なのではないかと思うときがある。昨夜寝ているときに、吐き気に襲われ目覚めてしまい、二時間ほど煩悶した。今日は立ち上がるたびに立ちくらみがする。何か悪い兆候という気がしなくもない。

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