10.08.2014

羊の皮を被った

人と仲良くしなさいという、当たり前の金言をぼくは無視し続けてきた。

十代の頃は他人に気に入られるよう努力していた。二十代のはじめには、それを諦めた。今ではひとに嫌われることが当たり前であり、孤独が自然な空気になった。お陰で、ずいぶん味気ない人生を送ってきた。

確かに、人と違う人間は排斥されるのが普通のようである。集団的な、大衆的な価値観と異なるというそれだけのことで、人はその人に嫌悪感を抱くようにできている。集団による個の排斥は、理性的であるというよりは本能的だから、色んな策を弄しようにもどうしようもないのだ。中卒の集まりにひとり東大生がいれば排除されるし、その逆も然りだ。しかし、だからといって異端者が大衆から遠ざかり、孤独の安逸に逃げ込むことが必ずしも正しいとぼくは思わない。

強靱な知性と、自制心をもって、くだらない連中にも笑顔を振りまき、親身になってやることが思ったより重要なのではないかとぼくは考える。というと選民的だが。しかし、やはり、異端者はどこか高次のところにいる人間である。「一匹狼と羊の群れ」のような例えが好んで使われるのは、人が本能的に孤独人の強さを知っているからではないかと思う。

羊たちにとって集団にいることは楽だ。同様に、狼にとっては独りでいることが楽なのである。孤独は確かに、味わってみると案外素晴らしいものなのだ。しかしそれでは何も生まれないだろう。孤独が苦痛ではなく安逸をもたらす段階においては、羊たちにとっての無思考と同じように、孤独が感覚を麻痺させる。

第一級の天才、例えばゲーテやカントは、ともに社交好きだと思われているらしい。ぼくは思うのだが、偉大な小説家や哲学者というものは、絶対に社交なんて好きではない。それでも彼らは本能的に社交の価値を認めていたのだと思う。それで、彼らの強靱な知性と、自制心をもって社交の場に身を置いた。カントは雑談の場において、自分の専門分野である哲学の話を絶対にしなかったという。また、大変な聞き上手であったと言う。これらから、カントの社交は表層的であったとぼくは思うのだがどうだろうか。

優れた精神の持ち主は社交を厭わないものだ。ぼくはずいぶん孤独に身を慣らしてしまった。これからは、にこやかに、快活な人間になろうという努力を少ししてみる予定である。ただ、これが大変難しいのだけど。

ぼくにとっては、愛することも愛されることも、危険と不安を孕んでいるように思える。おそらくカントはあれだけ毎晩自宅に客人を招待していながら……そのだれも愛さなかったことだろうと思う。たぶんね。

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