10.01.2014

zaccccccky 雑記

今日は幸福な一日だった。

昔の女を思い出すことなく、将来の不安もなく、黙々と目の前の課題をこなしていた。疲れたら友人と談笑すること、これが思いの外楽しい。ぼくは長い間こうしてブログを書いていた、生に倦んだような内容、キチガイじみた垂れ流し、アホまるだしの言論を狂気の海の底でこっそり書いていたのだけど、そうした過去の期間は全て病的だったのであり、責任ある仕事をこなし、友人と他愛のない話に花を咲かせること、それだけに満足する生活こそ、本当の人間なのだという気がする。ぼくはやっと狂気から目覚めたのであり、これまでの全ては空白の期間、低次の期間、忘れるべき期間という気がしてくる。

しかし、社交に喜びを見出し、仕事に疑問なくとりかかるという現在の幸福な、まったく幸福な状況はすでに消え入るべきものであることをぼくは知っている、ぼくはすぐにいつもの偏執的な疑問符に襲われるだろう、かくあるべきなのか?かくあるべきなのか、という。

ぼくはまったく不幸に生まれついてしまった。

最近思うことは、ぼくは本当に狭い世界しか知らないということだ。他者との関係を最小限にしているし、新しいことに挑戦しようという気もない。ただルーチンに身を落としている、家に帰ったら煙草を一本吸い、ブログを書いて、読書、映画鑑賞、そうして一日が終わる。だれもここには関与しないし、新しい風が入ることはない。ぼく個人は、読書と音楽さえあればどんな暮らしでもいいと思っている。ぼくはどんな底辺な職業に陥ることも厭わないが、サティやショスタコビッチを聴くことを禁じられたら怒り狂うだろう。ぼくにとってルーチンというのがひとつの平穏なのかもしれない。身の周りに何か楽しそうなイベントがなければ嫌という人がいる、美術館の企画展や音楽コンサートのようなお祭り騒ぎがなければ嫌だという人が。でもぼくは、とりあえず晩酌があって、音楽があって、たまに映画さえあれば、もはや何でもいいのだ。日常に期待すべき特異点はない。ぼくにとって人生はすでに死んでおり……いや、すでに死んでいることが望ましいのだ。

ぼくの生活の範囲は狭いが、おそらく交友関係に恵まれ、毎日刺激的な生活を送ること、これもまた狭いのだろう。ぼくの知人が、「某大物政治家の息子と飲んできた」と自慢することがある、これもすごいことだと思うが、まったく羨ましくならない。彼もまたひとつの片隅であって、大物政治家も、その息子も、片隅である。しかし、人間の生活とはそのようなものだ。それ以上の人生など、だれも望めない。だれもが狭く、暗く、じめじめしたトンネルのような人生を歩んでいる。

ぼくはかつて金持ちの生活に憧れたが、それは世界の頂点を知るためであった、そうして「こんなものか」と絶望するためであった。ぼくは会社に入る前から辞めることを考えているし、この年で死ぬときのことばかり考えている。ぼくのような人間はこの先どうなるのかわからない。友人たちもぼくがどうなるのかひやひやする、と言う。ひとつわかることは、こうして生き方ばかり考えている人間は通例というよりは例外ということだけだ。

ぼくはよく生きる自信はないが、ただ悩んでいることは正しいという気がする。だれも答えを持っているわけではない。聖人や偉人はすべて苦悩の人である。だから、ぼくは孤独も死も怖くないのだ。

頭が白んできた、寝る。

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