11.07.2014

民主主義について

民主主義は、権力の超克を原理として措定する――だが、それは、権力の真理、権力の偉大(もっといえば、権力の荘厳!)としてであって、権力の破棄としてではない。ジャン=リュック・ナンシー

民主主義について書かれた本を読んでいると、昔から「良いもの」と教育(洗脳)されてきた民主主義という代物が、ずいぶんいかがわしいものに見えてくる。

民主主義というのは広く行き渡ったシステムであると思う。学校の取り決めでは普通、投票制が使われる。ここで、一票は平等である。どれだけ熱意と真意のこもった一票も、怠惰と私欲にまみれた一票も「平等」であり、それが民主主義というものである。

時事問題になるが、タイで、華僑のタクシンが大統領になった。彼は都市部の税金を貧しい地方や農民にばらまくことによって国民の絶大な支持を得た。彼は無敵だった。彼を批判する敵は都市部におけるエリートと富裕層だけで、絶対的少数だからである。このような逆転を孕んでいるのが民主主義である。これが良いとか、悪いとかについてはここでは言及しない。ちなみに西欧諸国はタクシンを「民主主義の敵」と批判しており、朝日新聞などはかえって「民衆の味方」としてタクシンを好評価しているという。ひどい温度差だ。

人類の持つ寡頭制(少数による統治)に対する恨みは大きい。確かに、変人や不適な統治者のために国が振り回されていた過去がある。牧歌的な例では「生類憐れみの令」であり、陰惨な例では第二次世界大戦である。

しかし、民衆が必ず正解を導くという誤ったイメージはどこから沸いたのだろうか。無知がつみかさなると国を正しく導くことができるというのか。むしろ民衆が暴走する、ということがありうるのだ。ナチスのホロコーストの実質的な主犯は、中産階級の人間すなわち「大衆」であったことが心理学者のフロムに指摘されている。コーン=ベンディットもうこう言った。「しかしヒトラーを連れてきたのは民主主義である」と。 

ところで現代の日本を振り返ってみると、この国で民主主義は機能しているだろうか。ぼくはそのようなことはないと思う。なぜなら民主主義は自由な報道、自由な経済、自由な政治があって初めて成りたつものだが、どれも達成できているとは言いがたいからだ。そのいずれも既得権益層によって支配されている。報道、経済、政治は平然と癒着している。同じ層が混じり合わないということはない。原発事故という超非常事態でも、一枚岩の優れた連携をとって一億の国民の目を覆った(皮肉なことにぼくは日本の底力を感じた)。しかしぼくはそのことを単純に批判することはできない。

それは日本という国の選んだ道なのかもしれないという気がしているからだ。ここでいう国とは、統治者と国民を含んでいる。もともと少数の特権階級が統治してきた日本において民主主義を導入すれば、それは本来農民だった人びとが政権を握り、国を導いてゆくことを意味する。そんなことは可能か。不可能だ。手に余る。であるから、少数の政治的な秀才たちを大衆であるぼくらが選出することになる。これは事実上の寡頭制への逃避である。

ぼくら日本人が唯一、民主主義的に物事を決められたことがあるとすればそれは「民主主義を放棄することに合意した」という事実だけなのかもしれない。ぼくらは残念なことに、西欧諸国ほど民主主義への準備がされていなかった(もっとも西欧も準備不足だが)。

原発の再稼働について考えてみても、国民が健康を傷つけられた大変な事故があったにもかかわらず、その事実は黙殺され、何事もなかったことのように政策が進んでいく。しかし、そのように同意したのが、過去の大衆であり、今のぼくらなのである。「お上の言うことは絶対」であり、無知に甘んじ、啓蒙もせず、諦めと怠惰のため息をつくばかりなのがぼくらの姿なのである。

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