11.15.2014

知識について

フーコーやハンナアレントを読んでいるときは幸福である。内田樹のブログを読んでいるときも幸福である。それだけでなく、チェコの近代史を調べていても幸福であるし、最新の精神医学について学んでいるときも幸福で、バイクのエンジン構造を調べているときも幸福なのだ。

「知識」を身につけることがなぜこんなにも喜ばしいのだろうか。たぶんそれは、知識がそれ自体では決して役立たないからだろう。知識が知識にとどまる限り、その価値は無に等しい。しかし知識はぼくらの日常的な行動決定において、確実に影響している。知識は広く「行為」に直結する。だから、知識を得る喜びは、同時によき行為の喜びでもあるのだ。それは相乗的な喜びといえるだろう。知識は種であり、行為は花である。

ふつう知識を得た人は、より多くの知を求める。そうして学ぶことが喜びである人間と、学ぶことが苦痛でしかない人間の「二極化」が起きる。これは痛ましい事実だ。ぼくも二十歳くらいのときは、後者だった。盲と言ってもいい時期だった。

小学生が「ぼくは何のために勉強するの?」と問うたら、「立派な大人になるためだよ」と答えればよいだろう。立派な大人とは、エリートビジネスマンや、医師、弁護士である必要はない。立派な行為ができる人でありさえすればよいのだ。

ってまあ、「勉強は大切」という当たり前のことなんだけどさ。当たり前の事実だ。

いろいろ学んで行くにつれて、この「当たり前の事実」がより真実味を帯びてくる。世界は思ったよりもシンプルだ。知識のない人は即時的に生きる。「Aという場合にはBをせよ」「CのときにはDをせよ」という、一問一答式の行為を行う。こういう人は、例えばグーグルの検索結果を信奉する。彼にとって世界は複雑怪奇だ。しかし、よい知識を持った人は、そのようには生きない。彼は「Eであれ」という言葉のみにしか従わない。Eは善だったり愛だったりするのだが、大同小異だろう。

この世にはある真理がある、という気がする。そのことを直接言い表せた書物は、聖書や聖典含め、この世に存在しない。真実を表せないということ、それが言葉の限界だ。だから禅問答では言語=論理的な破綻が見られる。しかし多くの優れた書は、その輪郭をわずかに縁取ることに成功している。それによって、学ぶにつれ、おぼろげながら「絶対不変の真理」が自己のなかで形成されていく。その真理は、どちらかといえば、あたたかく(永遠に)、丸っこく、子どものように単純なのだ。

とまたわけのわからないことを書いたが、ぼくが読書をする理由はそのようなものである。真理を求めているのだ。こっぱずかしいセリフだが、真理こそ万人が求めるべきものだと思う。

ぼくの友人たちは、ぼくがちくま学芸文庫を手にしているとき、小説を読んでいると思っているようだ。多くの人が本といえば「恋愛小説」や「ミステリー」で、思想書などに手を出さない。これは残念なことだと思う(小説が悪いということではない)。

彼らは思想書や学術書は難しいと思っている。しかしそんなことはないのであって、難しいということはそれを「求めていない」のだ。「私にとってむずかしい本は、私にとって必要でなく、私にとって必要な本は、私にとってかならずやさしい」と加藤周一は言ったが、その通りだと思う。真理などいらない、と考えている人が大半で、その事実がぼくにとって残念なのだ。

0 件のコメント:

コメントを投稿