11.06.2014

ブログデザイン変更 /憂鬱について

ずいぶんとブログのデザインを変えた。十ヶ月ぶりの変更。

昨日までこんな感じだった。

相変わらず、好きなものばかり貼り付けたゴテゴテスタイル。


ここ数日は憂鬱がひどく、学校にも行けていない。昼から酒、ではなく、昼から睡眠薬を飲んで寝ている。ぼくの精神も回復することが必要だ。人間の精神の回復はほとんどが、睡眠によって達成される。ぼくも今はだいぶよくなった。実のところ、あらゆる精神病で睡眠不足が徴候となるのだ。そんなわけでみなさんにも、睡眠薬をおすすめしたい。精神の瓦解を防ぐ予防薬としての睡眠薬だ。

肉体と同じように精神も管理できないものだろうか。ぼくの肉体はおそらく、そこそこ健康と言えるだろう。酒をよく飲むので肝臓は良くないだろうが、健康によいものを食べ、タバコも日に数本なので……。

ところが、精神となるとそうはいかない。世の中の圧力が、精神のコントロールを許さない。ぼくらが閉じこもることは社会的に許されていない。習慣の強制力によって、人の顔を見ることが常に要求される。そして相対するその人も、嫌なことだらけの人生の中で、辛い顔ひとつしないのだから、ぼくも悲しい顔を見せるわけにはいかない。約束された笑顔と笑顔の相互作用の底で、ますます人生に絶望してしまう。

人は孤独になる時間を必要とすることもある、ということをわかってもらいたいものだ。ときとしてその方がずっと温かい。

昨晩寝る前にアンドレ・ブルトン「溶ける魚」を読んでいた。そのせいか、起きる前の半覚醒状態のときになって、ぼくは視点による世界の構築の過程を研究していた。ぼくらの眼前に広がる世界はいかに生みだされるのか。それは当然視るということによって可能なのだが、しかしぼくらの視線は事物の中心しか視ることができない。また視線を動かすときには、ぼくらが思っているよりもはるかに非連続的なものなのである。動画というよりは連続写真に似ている。しかしぼくらは世界を認識している。ぼくらの背後が奈落の底になっているのではないか、などとは思わない。このことの意味は……結局、世界なんて存在しないのではないか、ぼくらが生きているのは人間の感覚器官に都合良く構築される、人間的、あまりに人間的な世界なのだ……。というようなことをもっと深く考えたかったのだが、近くの老人がバカでかいくしゃみをしたので起こされてしまった。

くだらない哲学である。しかし哲学とは高尚なのだろうか。哲学が「人生の大問題」「ひとが考えるべきこと」であるなどという牧歌的なイメージはどこから沸いたのか。哲人たちは、知性の使いどころを間違えたのではないかと思う。オルテガ曰く、
哲学とはひきこもりanabasisであり、自分自身に向かって自己を容赦なくさらけだすことによって、自分自身の収支決算をすることである。他人の前では、われわれは完全に裸でないし、また裸でいることもできない。つまりもし他人がわれわれを見ているならば、その他人のまなざしはすでにわれわれの眼からわれわれ自身を覆ってしまうのである。
つまり哲学はシェンシア(科学)ではなく、インデセンシア(不謹慎なこと)である。というのは、それは物や自分自身をまったくの裸に、一糸まとわぬ姿――物や私の純粋の姿――にすることだからである。厳密に言うなら(sensu stricto)諸科学は決して純粋な認識ではなく、単に物を巧妙にあやつり利用するための実利的技術にすぎない。しかしながら哲学は、物についての恐ろしくも孤独な、そして寂しい真理である。(「個人と社会」より)
哲学は変態趣味のオナニーとよく似ている。 

とまあろくでもないことばかり語ってもしかたない。ぼくはブログのデザインを変えた。デザインを慣習から自由にしたことで、ブログを少し客観的に見ることができた。このブログの存在価値とはなんぞや。ぼくは文章を書くことが好きだが、ただいたずらに吐き出すだけというのも味がない。何かに打ち込まなくては、という気がしている。

精神病患者に紙とペンを渡すと、なにも指示しなくても、延々と書き続けるものなのだという。彼らは紙切れ一枚に、恐ろしく小さな文字で、恐ろしい量の文章を書き上げる。ペンの代わりに絵筆を持たせると今度は絵を描きはじめる。生涯で五百枚の絵を描き上げた患者もいたという。……精神科医たちは、彼らがそれを好きだからしていると思っているらしい。単純な思考である。彼らはかまぼこ工場の従業員が、かまぼこが好きだから仕事をしていると思っているのである。狂気と現実を行き来する患者は、何かを持ち帰ろうとしているのだ。その99.9%はうまくいかないし、うまくいったうちの99.9%は黙殺されるとしてもだ。

私の場合、書くことは身を落とすことだ。だが、書かずにはいられない。書くこと、それは、嫌悪感を催しながらも、やってしまう麻薬のようなもの、軽蔑しながら、そのなかで生きている悪徳なのだ。必要な毒というのがあって、とても繊細な、魂という材料でできている。われわれの夢の廃墟の片隅で摘まれた草や、墓石の脇にとどまっている黒い蝶や、魂の地獄のような水のざわめく岸辺でその枝を揺する、淫らな木々の長い葉っぱで。(「不穏の書、断章」フェルナンド・ペソア)

今すべきことは、知識を身につけることだという気もする。読むこと、書くこと、聴くこと、演奏すること、人生はこれだけで良いと思う。ただ智慧のみが、この人生ですがるに値するものという気がする。金も愛情も、すぐにしぼんでしまうものだ。

智慧は裏切らない。なぜこの世で智慧だけがこうも偉大で、ぼくを惹きつけるのかは謎である。ある人は権力に向かうし、女性の多くは異性に向かう。それもすばらしいことだと思うが、ぼくだけは知性に惹かれるのだ。恋愛もジョークもできない奴がガリ勉化するのと同じ論理かな。アインシュタインは物理学に「逃避」した。

「真実と知性とに濾された夢だけが尊い」とだれかが言った。また、どうでもいいことを書いた。

0 件のコメント:

コメントを投稿