11.02.2014

個人について

偉大な哲学者、芸術家の作品に触れ、また天才を研究したパトグラフィーや論文を読んでいて、頭をつかんで離れない疑問があった。なぜ彼らは孤独に引きこもろうとするのか。また、大衆を軽蔑するのだろうか?

これらの理由が昨日わかった。「社会があって次に個人が生まれた」という事実を思い出していただきたい。個人とは、社会のアンチテーゼなのである。ということは、個人おのおのが個人おのおのとして存在しようというとき、大衆であること、社会に属することを少なからず拒絶しなければならない。その性質は根本的にアウトサイダーのそれなのだ。

この事実は社会構造を一変させる。よく言われるように、社会は個人が参与し、構成するものではなくなった。そもそも個人とは希少なものだからだ。反対に、社会が個人を生みだす。そして生みだした個人の手によって崩壊し、新しい社会に導かれる。

社会は大衆が支えるのであって、ここでいう「個人」とは別物だ。無論、社会の構成員それぞれが別の肉体を持ち、特質を持っていることは認める。しかし、例えば、田舎の閉鎖的な村に行ったことがあるならわかるだろう。村全体が一つの意志を持っており、村人たちは村というひとつの組織体のロボットのように動く錯覚を覚えるものだ。「村の掟」や「村長の命令」には盲従する。あのように意志を持たず揺れ動く人びと、指導者がいなければ何もできない頭脳を欠いたような生き物、それが大衆である。

E. フロムによれば、第二次大戦でもっともホロコーストに賛同し、ユダヤ人の虐殺に貢献したのは中産階級の下層だったとされる。つまり大衆だ。このように、自分で物を考えられず、自分が何をしているのかわからない、ということが大衆のひとつの性質なのだ。

ところで、個人=天才たちは反社会あるいは非社会的存在でありながら社会と接しないわけにはいかない。

第一に、まず社会のおかげで彼らは生まれたからだ。病跡学によれば、天才は高度な教育を受けた裕福な家庭で生まれやすい。発展途上国や貧乏な環境にあっては、才能の芽は摘まれてしまう。彼らは労働に不適な痴愚として扱われる。優れた教育を受け、思想する自由を与えられたことによってはじめて天才的な思想が生まれる。成熟し、安定した社会の余剰にこそ叛逆者たる天才が生まれる、と言うことができるだろう。

また、アウトサイダーであるところの個人も、社会から完全に逸脱することはできない。「人間は一人では生きていけない」という事実は、言葉通りの事実だからだ。だから個人の仕事は、社会を変えることになる。

結果的に、社会は生みだした個人によって止揚される。テーゼであるところの大衆=社会があり、アンチテーゼの個人=天才がある。そして社会は変革されるのである。社会はそのようにしてより良い方向に進んできた。社会が病んでいるとすれば、それはもはや変化しないということなのだ。

簡単なモデル図を描いてみた。雑な仕事。

もう少し展開できる考えだと思う。例えば、成熟した社会で精神病が増えるのはなぜか?なんて興味深いテーマじゃないだろうか。ともかく、今日はここまで。

ところで、このような意見は、ぼくの耳に都合がいいから発しているわけではない。ひとつの事実であり、個人的には重要な気づきだと思っているから文章にまとめている。このように読者の少ないブログだから、どんな稚拙で未熟な論でも、言ってやろうというわけだ。まあ生暖かい目で見守ってください。

続き? ⇒大衆について

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