11.20.2014

人類みな欠陥品

最近精神がじわじわと変わりつつあるのを感じる。他者を認めるようになって、自分を認めることができるようになった。

もっとも強く感じたこと、根本的に悟ることのできた真理は、自分がダメな人間であっても、それはそれで良いということだ。

というか、世の中、ダメな人だらけだ。臆病な人もいれば、傲慢な人もいる。散財する奴もいれば、過度の守銭奴もいる。みんなそれぞれ、欠陥品なのだけども、うまくごまかして人生やっていっているのだ。このことが気づけなかった。

ぼくは、自分が特別な存在であると思っていたのだ。これは中学のときから変な病気を発症していたためで、そのためぼくは絶対孤独の中に落としこめられた。おかげで他者とは共感不可能であり、自分と他者がいれば必ず自分が劣っている存在だと思った。なぜならばぼくは「キチガイ」「異常者」であり、他者とは常に「健常」だったからだ。

ところが、どんな人間でも自分と同じようにくだらないコンプレックスで悩み、うまくつじつま合わせをしてごまかし、だれの目にも触れないところで悪いことをし、あるいは泣き、他人の前では「いい顔」をしていることなど、ぼくには理解不能だった。

そんなわけで、ぼくは四捨五入して三十になろうというときになって、人は「一面的」なものではないことを知った。いや、ひとが二面的であることは知っていた。それはぼくの前では親しげに接し、ぼくの前から去るときに毒づくといった類の二面性だった。しかし、そうではなく、他者であるところの「彼」にとっても、彼自身の精神は倒錯しており、一枚岩ではいかない、それひとつでカオスに満ちた存在であるということを今更ながら知った。

ようは、「もしかして意識を持っているのはぼくだけなんではないか」という小学生にありがちな妄想を、この年まで引きずってきたことになるだろう。現実はどうだろうか。あなたにとって、あなたの精神は厄介なカオスであるし、ぼくにとっても然りというわけだ。

この小さな変革があっていらい、世の中は一変してあたたかいものになった。もはやぼくだけが欠陥品ではないのだ。完全な人がいるとすれば、それは完全なごまかしなのだ。ぼくはあらゆる人の欠陥を愛でることができるだろう。というのも、欠陥はぼくにもあるからだ。また、自分の欠陥を愛でることもできる。欠陥は、必ずしも人間にとってなくすべきものではないからだ。

もっとも、努力すれば治せる欠陥は治すべきだろう。しかし、努力して治せなければ、もう諦めるということが重要なのだ。そうしなければ、長い間前に進めなくなる。

流砂の中にとらわれた人は、そこから出ようともがく。もがけばもがくほど、奥深くはまってしまう。流砂にとらわれたら、大事なことは、そこで寝転がってしまい、動かないことである。しかし不安にかられている人間にとって、ただじっと動かないことほど難しいことはないものだ。

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