11.14.2014

成熟とは遠い男

仕事をして飯を食べてよく寝たら、だいぶ精神の状態が良くなった。

ぼくはこれまで自己に執着しすぎていた。最近はひととよく話すようにしている。昼飯も友人ととるようになった。社会の中で自分がどのように位置づけられるのか、ほんのちょっとだけ考えるようになった。

今までぼくは社会を拒絶していた。自分は社会からのつまはじきものなのであり、他者からの評価などどうでもよいと考えていた。しかし、ぼくは相変わらず学生であるし、社会の提供する治安、サービス、商品を受け入れている。なんだかんだいっても、ぼくは社会の含有物である。だから社会を必要以上に拒絶することは辞めた。その証拠にある程度、愛想笑いをするようになった。

この脱離-和合のプロセスが「成熟」の段階だというのならそうなのだろう。ぼくが子どもの頃は、「社会の一員として」という言葉がよく使われた。人は社会という共同体の中で生きているのだから、社会の求める役割を演じろという要求は、当然のように思われる。

しかし、社会とは何なのか?なぜそのような義務がぼくらに課せられているのか?ぼくらは自由な独立した人間であってはならないのか?そのような役割は必要なのか?というような疑問を持つこともひととして当然であるように思う。その疑問を曖昧にして、わかったふりをした自称「成熟した社会人」もいるが、そういう人間は優等生的な子どもと変わらない。

これらの疑問の答えは、いったん社会から離れなければ見つけられないだろう。外部からきた異邦人の目で、自分の国、街、共同体、文化……を見つめなければ、社会の本当の姿を見ることはできない。そのためには、ひとつの方法として読書があるし、多様な人と交流して知見を得ることも重要だろう。あるいは実際に海外に飛んでしまうのもアリだ。

自分は多少は成熟したように思う。とは言っても、円滑なコミュニケーションをとれるような人とは自分は根本的に違う、と感じる。ぼくは人と話すときに、居心地の悪さを感じる(相手もたぶん感じている)。自分の惨めさに嫌気がさして、死んでしまいたくなるような精神の危機が頻繁にある。こうした現象を、未成熟の証だと言うのならそうなのだろう。

しかし成熟とはなんだろうか、と思うことがある。もはや自分のことを悩まないということ、「答えを見つけた」と信じること、いわばアイデンティティの確立、これが成熟なのだろうか。

ユング派、フロイト派の精神分析を表現した小話がある。
ふたりの永遠の少年タイプが、フロイト派とユング派の分析治療をたがいに別々に受けてみた。やがて、再会したふたりはおたがいの経過について会話する。フロイト派の治療を受けた青年は、すっかり社会に適応し始め、自分の幼児性も克服し順調にいきつつあるという。これからどうするのかと尋ねると、いずれお金をかせいで結婚するつもりだ。と言う。
ひきかえ、ユング派の治療を受けていた青年はさっぱり変化がみられない。未だに方向が見えない。
しかしフロイト派の治療を受けていた青年は、こう言う。
「なんてことだ ! 分析家たちは悪魔も追い払ってくれたけれど、一緒にぼくのなかの天使まで追い払ってしまった」

ある精神科医いわく、「ある種の精神にとっては一粒の小さな狂気のほうが、わずかな貴族の血にまさるだろう。半狂人がいなくなったあかつきには文明社会は滅びるであろう。溢れる知恵によってではなく、溢れる凡庸さによってである。これは掛け値なしに断言できる」と。

で?って感じではあるんだが。

自覚的な狂気の道ねえ。「不誠実か、発狂か」。誠実であるだけ、人は狂気に転落してしまう。


最近は内田樹のブログをよく読んでいる。この人は掛け値なしに天才だと思う。あとは、ハンナアレントと、フーコーを読んでいる。……今更だ。勉強の楽しみを知るのが遅すぎた、という気がしている。もう二十七才なのだ(かわいげのない数字!)。ブライアン・ジョーンズ、ジミ・ヘンドリックス、ジャニス・ジョプリン、ジム・モリスン、カート・コバーンはこの年で死んだという。まあ今更フーコーに手をつけるとしても、一年前は太宰治とか坂口安吾に熱中していたのだから、多少は進歩していると言えるのだろうが。

自分の年齢間違えてた。二十六才になるのだった。アホか俺は。

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