11.25.2014

傲慢と卑屈

これだけ毎日書いているとわかることがあって、それはぼくの文章は生意気ということである。どうもよくない。自分で読んでてもなんかむかついてくるのである。自分を偉いと思っていやがる。

この性質は数年前の書き始めからそうだった。数年前、ぼくは三島由紀夫の「葉隠入門」を読んで感銘を受けた。その本には次の訓示がある。「武勇と若い者の生き方については、我こそは日本一だと大傲慢でなければならない。」

これをしばらく座右として、偉っそうに生きる免罪符にしていた。ところが最近これに続きがあることを知った。「しかし、自分の非を知ったら、すぐ捨て改めるようにしなくてはならない。」

まあ、それはそうだよね、という話。傲慢であることは必要悪であって、目標ではないのだ。もっとも、臆病であってもならない。このバランスが重要なのだ。
機械的な、あるいは臆病な服従は、何の役にも立たない。思い上がった反抗はなおさら役に立たない。というのは、傲慢と卑屈から生じる結果は、同一のものだからである。それにこの二つは、人の考えているより、ずっと近い関係のものである。(ロジェ・カイヨワ「文学の思い上がり」)

Evening in the Studio 1993 Lucien Freud

芸術というものを考えると、カイヨワが言っていたことが頭をよぎる。いわく、「芸術とはまず何よりも、人に好かれなくてはならない」と。当然だ。当然なのだが、難しい言葉だ。ひとが好くものとはなんだろうか。

近代以降の芸術は、一見してひとを寄せつけないものがある。グロテスクだったり、露骨なエロスだったり、汚らしく、人間の嫌悪感を呼びおこすようなもの。しかし、ひとはそういうものにも「好意」を抱く不思議な生きものである。

うんち、というものがある。ぼくらは特殊性癖がない限り、うんちは嫌いである。少なくとも、自分ではそのように思っている。

しかしその昔、小学生時代には(男の子は)うんちをこよなく愛していた。コロコロコミックのような少年誌はうんちで溢れている。また、フロイトの言うように肛門期というものがあり、心理的な発達過程における重大なファクターなので、ひとはうんち的なものに対して愛憎混じった並々ならぬ関心を抱く。

(例えば、はじめはうんちをすると母親に褒められるのだが、二才くらいになって排便訓練がされると、今度は「汚い」「くさい」と罵られるのである。これが重大な葛藤を生む)

だから「汚いモノ」も芸術になり得るのだ。ひとに好かれうるのだ。人間とはどうも一枚岩でいかない生きものである。屈折している。バタイユは「好色漢と聖女の情念は同一」だとしたが、倒錯し矛盾しゆれ動くものというのが人間であるらしい。

ともあれ、可憐な花だけが芸術ではない、ということだ。むしろ、花を見て「美しい」と思うことは凡庸な精神だと思う。同じものを見て違う解釈をすることが独創性だろう。と凡庸なことを言う。

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