11.26.2014

ニーチェの功績を考える

人間の本質というものを考えると、まずもって、性別の違いがあるだろう。男であって、同時に女であるような人はいない。こうした形態的に明白な違いである性差の他に、もうひとつ、精神の違いがあると思う。

人間は性別の他に、もうひとつの特性を与えられているとぼくは考える。その双極は、精神に生きるか、肉体に生きるかである。わかりやすく分類すれば、前者は学者や研究者などの知的労働者に向いており、趣味も読書や将棋などだ。後者は漁師やドカチンなどの肉体労働に向いており、スポーツを好む。

ニーチェのいう「超人」とは、個人的な解釈になるが、精神性と肉体性を兼ね備えた人物であると思う。つまり、聖職者のような神経質でなよなよした人間は、鋭敏な知性を持つものの、肉体=大地的な快楽を知らず、不十分である。かといって大衆(労働者)でもいけない。彼らの知っていることもほんの一部だからである。

精神性と肉体性を備えた超人は、個人として完成している。彼はもはや聖職者にも従わないし、大衆にも従わない。なぜなら彼らはすでに両方の性質を持ちあわせているからである。彼はただ自分のみに従うため、最高の主体性を持つ。彼の行動はすべてが正しいのであって、彼は善悪の彼岸にある。彼は「他者を超越した至高者性」を持つ。彼はアポロンであると同時に、デュオニソスである。
そんな神なんか失せろ! 神なんかいないほうがましだ, 独力で運命を作るほうがましだ, 阿呆であるほうがましだ, みずから神であるほうがましだ!(『ディオニュソス哲学への道』 序説より)

ただ、この超人というのは神話的であって、「ありえない」とぼく思っている。結局ニーチェの求めた超人というのは、両性具有的な偶像である。両性具有が(ほぼ)存在しないのと同様、超人も存在しないだろう。

古来から人は両性具有を崇拝し、そうありたいと願った。ぼくらは男であるか、女である。性別とはひとつの超越不可能な限界点である。だから、両性具有の崇拝は、限界的な個人であることからの超越の願望である。

例えばインド・ヨーロッパの多くの宗教は、昔、原初の両性具有者がいて、男性と女性がひとつになっていたとした。またシヴァ神やエロースなど、多くの神々は両性具有であった。

ニーチェの功績とは、新しい古典的な宗教の誕生にある。彼は新しい神話を作った。それは超人が神であるような神話である。だから、彼は言った。「神は死んだ」と。

一般的には、ニーチェの志向は「大地=肉体」であり、「デュオニソス」と言われるが、ぼくはそうは思わない。そもそも、アポロン主義はデュオニソス的な地底があって発育したと言われる。
ディオニュソス的ギリシア人こそ, アポロン的となることを必要としたのである。 いいかえれば, 物すごいもの, 多様なもの, 不確実なもの, 恐ろしいものへのその意志を, 節度への, 単純性への, 規則と概念に従属することへの意志でくじくことを必要としたのである。(
ギリシャ以降のヨーロッパは、過剰なアポロン主義であった。論理による支配、厳格なアカデミズムの潮流である。ニーチェの功績とは、当時あまりに軽視されていたデュオニソス神を救いあげ、復活させたことにあると思う。

ニーチェは、アポロン的なるものを否定し、デュオニソス神を崇拝するにとどまらなかった。彼はアポロン的なものを前提として、その上にデュオニソス神を置いたのである。ギリシャからニーチェ以前までのヨーロッパは、デュオニソス的なものの上にアポロンが立つという二階建ての静的な建築物だった。ところが、アポロン的なものの上に、デュオニソス的なものがおかれたことによって、その上にさらにアポロン的なものが、そのうえにデュオニソス的な……という無限の連鎖が生まれた。これによって、思想、そして人間は、無限の活物になったのだ。

ニーチェ以降、アポロン的なものとデュオニソス的なものは
永劫的に台頭しあっている。

こうした動的なはたらきによって、アポロン的なものとデュオニソス的なものとの永遠的な多重層が生まれていくとぼくは考える。ニーチェを境にして、停滞した人間の歴史が動き出したということができるだろう。



くだらないことを書いた。明白な失敗である。勉強不足である。引用元の論文も大して読み込めていない。これは失敗作として、いちおう残しておきたい。

でもこの転換によっていろいろ説明ができる気がする。西洋美術史もそうだし、下のユングの精神モデルも覆せる気がするし(まさか)、フーコーの言った「近代以前に人間は存在しなかった」だったかな、あのラディカルな発言も理解できる気がする。気がするというだけだ。こんなことしてないで学校へ行かなきゃいけないのに……。







ふつうの日記

最近は至って幸福なので、困っている。つまるところ、人間関係が良好であれば人間というのは安泰に暮らせるものだ。

相手を理解し、理解される日々なので、一日一日が充足される。明日を忘れ、昨日を忘れてしまう。もはや哲学書も頭に入らなくなってくる。力の余剰は沸いてくるものの、それは負のエネルギーではなく、陽性で開けっぴろげなものになった。今であれば、友人が死ねば泣くだろうし、友人の頼み事も聞いてやることだろう。つまりぼくはずいぶん人間らしくなった。

しかしそれでいいのかもしれない。それが人間の本当の生活なのかもしれない、と思うことがある。

幸福は迷妄であるとか、一切皆苦だとか、他人とは地獄であると言われるけども、どれも人間性に反していると言えないだろうか。人間を解剖しその本質を知ること、「将来の死」を悟り絶望すること、それが人間的行為なのだろうか。そうではなくて、単純に「イマココ」に生きること、幸福にひたり盲目的に生きること、これも人間的な営みと言えるのではないだろうか。

釣りの楽しみは、待つ楽しみである。待っているそのときが楽しいのであって、大物を釣り上げることになろうと、魚の代わりに空き缶だろうと、イマココは単純に幸福なのである。哲学者は、釣果を知ることを試みる(それは多分、不可能なのだが)。そして現在の幸福はなおざりになってしまう。

日本人は、非常に楽観的だと思うことがある。戦争になれば一生懸命国のために尽くし、経済成長したら金を使うことを無邪気に楽しんだ。現代でも、ひとびとは労苦に喘ぎながらも、幸福である。例えば、「萌えアニメ」のブームがあったが、オタクたちはユートピア的な空想世界を作り上げて、なんとかしてイマココを楽しもうとしている。

ここが西洋人と日本人の違いだとぼくは考える。イマココを楽しんでいるなら、なんで日本人は自殺するんだと言われそうだ。まあ生半可な考えである。

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