11.28.2014

原子力村は日本人の村である

昨日、福島原発についての動画を観ていた。あのノーム・チョムスキーに、「子どもたちを放射能から守る世界ネットワーク」が福島原発事故の問題についてインタビューしたのだ。


興味深いのは、「フクシマ」が主題であるはずなのに、チョムスキーの話が一貫して「自分たち(アメリカ人)を振り返ることが大切だ」と説いていることだ。インタビュワーがさんざん話の焦点を「日本の失策」「マスコミの情報統制」「福島の子ども」にシフトさせようとするのだが、チョムスキーの語ることはほとんど全てアメリカの政策、アメリカの歴史、アメリカの陰謀なのである。

このことは、チョムスキーがちょっと疲れているのだとか(そのように見えるが)、日本のことに関心がなく、自国民のことしか考えていない、ということとは違う。彼は逆に、日本のことを非常によく理解しているのだ。日本のなにを理解しているのか。それは、日本という国が独立して主体的に動きうる国ではなく、アメリカの属国であるということだ。

だから、日本で子どもたちが放射能で健康被害を受けていると言っても、その原因は日本の国家だとか、東電、マスコミのようないわゆる「原子力村」に悪の根源があるわけではない。日本という国は、悪者には決してなれないのだ。脅迫され、意のままに動かされる人間に罪はない。子どもが失敗したら、親の、つまりアメリカの責任だというわけだ。このことをチョムスキーは理解しているのだな、とぼくは理解した。だから彼は、日本のマスコミのことも国のことも、あまり批判しようとはしない。彼は本当の原因がどこにあるかを知っており、そうした批判は皮相的にすぎないことを知っているのだ。



けっきょく、日本は敗戦国であるし、その相手は史上最大の超大国アメリカである。日本はいまだ主権なき国家というのが悲しい現実である。

原子力産業のひとびとや、東電や、首相やその周辺の政治家を当時見ていて思ったのは、彼らも極めて日本人的だ、ということである。彼らは「悪の枢軸」のように扱われることが多い(特にネットで)。しかし彼らが巧みに陰謀や権謀術数を駆使し、国民をコントロールして利潤を得ていたようにはどうしても思えなかった。そのように考えてしまえば楽だし、実際そう考えている人は多い。

でも、清水社長や管首相の姿は、哀れで頼りない、大震災に狼狽している情けない日本人だった。それはぼくらと同じ、日本人らしい日本人であるということだ。確かに彼らは数え切れない失敗を晒したが、決して悪質なものではなく、むしろ子どもじみた失敗が多かった。そこにあるのは巨悪ではなく、単に「慌てふためいている日本人」の姿だった。だから、当時の政策や悪人とされる人びとを、ぼくは無碍に批判することはできない。彼らの姿はぼくらの姿でもある。チョムスキーの言葉を借りれば、「自らを振り返らなければならない」。

アメリカの属国となってから半世紀以上たつうちに、ぼくらは次第に頭脳を失っていったのではないか。つまり、思考し、判断し、決定するという前頭葉のはたらきを失ったのではないか。

だから、アメリカの言いなりとなって地震大国の日本の沿岸に原発を建てた。少数の科学者の警告など無視し、原発の津波対策をろくすっぽしなかった(科学者の声を無視したのは、ぼくら市民も含まれる)。そしていざ事故が起こったあとは、バカな政策によって子どもたちや妊婦を無用に被爆させた。マスコミは談合し、情報公開を極めて制限した(彼らは「国民が混乱するから」と善意で情報を制限していたらしい。ほんとバカにしてるけど、結果的には正しかったとすら思えてくる)。

諸外国から見れば、日本の対応は極めて異様に見えるはずだ。なぜだれもかれもがあり得ない失敗をし、間違った方向へ進んだのか?そして市民たちはすべてが明るみになった今でもそのことを批判せず、変えようとしないのだろうか……?と。

結局のところ、何が悪かったのだろうか。アメリカが悪いといっても始まらないだろう。それに、戦争に負けたことをいまさら反省してもしかたない。ぼくらは確かに奴隷である。国家が隷属しているならば、ぼくら国民も奴隷と言うほかない。しかし、奴隷であっても精神のなかで人は自由になれるのである。何もかも譲り渡してはいけない。奴隷には奴隷なりの狡知があるはずだ。ともかく、原発関連の一連の「大失敗」は、「責任を持ち、自分で考える」ということがことごとく抜け落ちていたが原因だったように思う。その意味では、日本人は大いに反省すべきだろう。だれが悪いというわけではない。日本人の連帯責任である。だれか悪者を探すということこそが、思考停止の始まりなのである。

ちょっと今日はめちゃくちゃなことを書いたかもしれない。まあいつもか。






普通の日記

ぼくは田舎に就職を決めているのだが、そのことを友人に話すと大いに受ける。とくに、ぼくが庭付きの一軒家に住むというと、笑われる(実際は田舎なので、月六万円くらいでしゃれた一軒家が借りられる)。コンビニまで「自動車で」二十分かかるというと、大爆笑である。

海が近いので、仕事が終わったら釣りをして(今時めずらしい定時上がりの会社である)、その成果を晩飯にする、サーフィンやヨット遊びをしてもいい、などというと感心されたり、就活を控えた後輩に妙に食いつかれたりする。とくに教授くらいの年齢の方には、とてもうらやましがられる。

お前はその年で隠居するつもりなのか、といわれると、ぼくは「そうです」と答える。若いときの苦労はなんとやらというが、ぼくは苦労するにしても、自分のために苦労したいと考える。会社や社会のために貢献するだけでは、自分が置いてきぼりになってしまう。もちろん、会社とプライベートを両立させることのできる器用な人はいるが……。

ぼくは、到底社会に向いていない人間である。とくにこの競争社会、消費社会というものが肌に合わない。一日十時間も働かされるのでは、家に帰るたびに、ぜいぜい喘いでしまう。だから、金と時間を選んだ。どう考えても、若いときに暇があった方がいい。セネカも言ったが、身体がどうにもならなくなってから暇と金を得てもしょうがないのだ。

0 件のコメント:

コメントを投稿