11.04.2014

大衆について

相変わらず前の個人と社会の関係についての考えが頭を離れない。「社会(テーゼ)が個人(アンチテーゼ)を生みだし、止揚され、社会が改革される」という考えだ。

こういってよければ、これはひとつの「思想」ということになるだろう。ぼくにとって思想を持つということは初めての経験だった。だから今、そわそわして落ち着かない気持ちでいる(初めてブリーフではなくトランクスを履いた小学生のような)。

些末な思想の断片であればいくらでも持っていた。資本主義はああだ、精神医学はこうだ、と言ったような、あまりに具体的な借りものの考えはあった。しかし血肉になって馴染んでいった思想はこれが初めてだった。

この思想は新しいものではない。ニーチェやオルテガ、ハイデガー、ポパー、フーコーのような哲学者はかなりの比重を置いて語っているし、文学においても大体個人と社会という関係で進んでいる。とくに、イプセンの作品なんてほとんどこの通りに進む。例えば、こうだ。
「真理と自由とのもっとも危険な敵は、かの堅実なる多数、よいか、この呪うべき、堅実なる、ぐうたらな多数である。……多数が正義を有することは決してない。断じてないのだ!これこそあまねく瀰漫した社会的虚偽の一つであって、これに対しては一箇の自由な思考する人間は反逆せざるをえないのである。……正義とはつねに少数の所有するところのものなのだ」『民衆の敵』

結局、この自国民を叱りつけた「王」は戦地で死ぬ。国民がどうなるかは語られていない。しかし、実は作中で予言されている。つまり、「王は死に」、「民は滅び」、「第三帝国が築き上げられる」と……。これ、ぼくが言った弁証法のモデルとまったく一致している。

ようは、ぼくは人間社会のもうひとつの機構を発見したということになる。あらゆる作品において「生と死」「男女の愛」は人類普遍のテーマだ。ここに、ぼくは「個人と社会」という新しい概念を加えた。ぼくは今までこのことが見えていなかった。いや、社会によって隠されていたのだ。

民主主義的な社会における教育の力がいかに根強いことか!とぼくは驚く。みんな仲良く、個性豊かに、お互い認め合おうというような。欺瞞、欺瞞だった。個性などなかった。個性を発育することは阻害されていた。なぜなら、個性とは社会と相容れないものだからだ。だから、個性を尊重せよと口では言っている教師が、個性的な振る舞いをした生徒をひっぱたいて戒めるという矛盾した教育が行われる(生徒はたまったもんじゃない)。

個性を生まれもった人間はどうすればよいか。個性を捨てて社会に同化するか、個性を保持して社会から離れるかである。個性とは、社会がかかげるAが好き?Bが好き?という命題に対して、少数派となる「B」を選ぶことではない。「C」を選ぶことだ。社会が提供してくれるA、Bを排除して、Cを追い求めるのが真の個性である。しかし社会は動揺する。そんな人間は慣習の破壊者だからだ。そしてまず「慣習」によって、社会はできあがっているのだ。

ぼくは「ゆとり教育」を受けた。幸運なことに、この世代は比較的「個性豊かに」に育てられた(比較的、というだけで真の個性を育む教育とはまったく言いがたいが)。このような世代の人びとは、一般的に社会で「使えない」とされている。その理由を見てみると、終業時間になるとさっさと帰ってしまったり、理不尽な扱いや叱責に耐えられないのだという。

ぼくはよくやった!と思う。彼らは社会に対する挑戦者なのだ。世界的に見れば、従業員を残業までさせてこき使ったり、部下を頭ごなしに怒鳴りつけるなど、非常識極まりない。なぜなら使用者と従業員は対等であるという当たり前の感覚が根付いているからだ。

おじさん世代は、ただ慣習の強制力によって残業を黙々とこなす。部下をねちっこく叱りつける。自分が何をしているのか自覚はないのだ。今までもそうだったし、これからもそうすべきだ、というただそれだけの理由で。この「慣習のロボット化した人間」というのが大衆の正体である。

まあこの話はまた今度。

とにかく、ぼくは新しい思想を身につけたというわけだ。これはぼくが独自に生みだしたわけではない。先ほど言ったように、さまざまな文学、哲学、聖典において語られていることだった。ぼくは鈍感だったので、そのメッセージに気づくのがあまりに遅かったのだ。おそらく多くの人がとっくにこの事実に気づいていることだと思う。

「大衆はアホなのではないか?」

こう思ったことはないだろうか。ぼくも当初は、その疑問を打ち消そうと努力した。「いや、ぼくも大衆の一人なのだから、そんな大それたことは言えない……。」しかし、やはりこのことは、明言することがはばかられるこの疑問は、Yesなのである。こう言い切ってしまうしかない。

もともと、このブログの発端は「世界を変える」ことにあった。その根っこには、原発事故があった。ぼくは事態にまったく対応できていない政府、電力会社や、マスコミに振り回され、衝動的に動く大衆を見てこう思った。「こいつら、アホだ」。実際のところ、こう思わなければ嘘である。あれは大いなる失敗だった。巨大な躓きだった。確かに、少数の英雄は涙ぐましい活躍をしたと思う。しかしやはり大衆となると、アホだった(たぶん同様のことを二次大戦中の賢い日本人は思っていただろう。大衆はアホだ、と)。

身分制度の生きていた江戸時代であればマシだったのかもしれない。武士は武士でそれなりに気高く生きていたし(たぶん)、農民が愚鈍で、商人が卑しくても、それは公知の事実だったからだ。なにもかも現代はごちゃ混ぜになってしまった。そして貴族でも王族でもなく、大衆が勝利したのである。現代社会のさまざまな歪みはこうしたところから生まれている。

長くなったのでそろそろ辞めよう。普通、著名人がツイッターで「大衆はアホだ」なんてつぶやいたら大炎上だろう(炎上とは非常に大衆的な行為だと思う……)。相も変わらずだれも見ないブログなので、こうしたタブーを言ってみる気になった。

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