11.04.2014

人生の停滞感

人生の停滞感が否めない。

ブログを読み返していると、自分でも何が言いたいのかよくわからない。万人に公開されているブログでありながら、文章はひどく読みづらく、読むことを拒絶しているとすら思われる。文章は表現の一形態であり、そのようなものである以上は、ぼく個人の人格をむざむざとさらけだす。つまり、意識の上では読みやすい文章を志しているにもかかわらず、ぼくの潜在意識では、分裂質特有の他者を遠ざけたい心理がはたらいている。これがぼくのブログの奇形的な文章の正体である。ぼくは無意識に言葉で壁を作っているのである(加えて、文章が下手)。

ぼくはこのままだれにも理解されずに「奇妙なおっさん」で終わるのではないか。そのことが怖い。しかし、ぼくはともかく「知」をよりどころにしている。金や、権力でもなく、ただ知を追い求めたいのだ。そのような人間にとって、もはや幸福のもつ価値は崩れ去る。満足な豚よりも不満足なソクラテス、というわけだ。不幸が知の源泉であり、孤独が天才の学校である。ただぼく自身を子細に眺めてみると、実はこれは「不満足な豚」ではないか、という気もしてるのだ。ぼくは人間だと思い込んだ狂った豚なのかもしれない……。まあ、願い続ければきっと人間になれるだろう。ピノキオみたいな感じで。


ところで、「創造と狂気(フレデリック・グロ著、3500円もする)」という書籍の中にぼくのことが書かれていたので引用したい。長いけど。
「彼らは少年時代からその早熟さと、すべてを理解し把握する能力によって目立っている。しかし同時にその気まぐれ、頑固さ、本能的な残酷さ、激しく痙攣的な怒りの発作が目につく。思春期には頭痛やさまざまな神経症の疾患を訴えることが多い。同時に興奮や欝の一時的発作もある。さらに情念に捕らわれた心的傾向の極端なものもある(神秘主義、自慰、漠とした性的願望、旅行熱、偉業の追及など)」
大人になると精神の不安定さは増大し、魅惑的で、独特、エキセントリックで、人を惹きつけるが、危険なパーソナリティが生まれる。さらに創造的だが、欠陥がある。これらの点は以下のようにレジス教授の『精神医学要諦』に明言されている。後にアンドレ・ブルトンが丁寧に書き写すくだりである。
「大人になった彼らは、複合的で、異質の要素からなる存在、バランスを欠いた要素、正反対の美質と欠点からなる存在である。さらにある側面では才能に恵まれているが他の側面では不十分である。知性の面では、時として極めて高い想像力、構想力、表現力を有す。つまり言葉、芸術、詩の才がある。程度の差はあれ、彼らに欠けているのは、判断力、生真面目さ、とくに持続力、論理力であり、知的な生産活動と人生の行為における一貫性である。このためその往々にしてすばらしい資質にもかかわらず、彼らは理性的な仕方では行動できず、ひとつの職業を継続的に勤めることができない。それは彼らの能力を超えているように思える。自分と家族の利害を守ることが出来ず、商売を切盛りし、子どもの教育をみることができない」
幼年から現在までの自己を振り返ってみても、おおむねぼくはここに書かれたような人間である。詩才があるというような点には疑問も沸くが、驚くほど精緻にぼくを描いてくれたという気分だ。

精神医学の本に、典型的なエピソードとして自分と酷似した例を見つけることが正しいのかはわからない。けっこう複雑な心境である。自分のことについて知り尽くしてしまうことが正しいのだろうか?ぼくは「理性を欠き」、「子どもの教育に失敗し」、「家族を守れず」、「職業を転々とする」のだ。自分の運命の行く先が破滅であることを知るのが正しいのだろうか。これはガンの宣告に似たような問題だ。汝自身を知れとは言うが、酷なもんである。

ぼくはヘッセの言ったことを信じたい。人間にはひとつの自我があるのではない。無数の要素によって自我が成り立っていると。だから神経症的な病んだ精神はぼくの一部であり、その他には健常で、普遍的な性質をもった自己があるのかもしれない。そう思うことで、少し希望が持てる。

0 件のコメント:

コメントを投稿