11.08.2014

義務について

本の選択が強迫的になってきた。これが読みたい、というよりは「これは読まなければならない」というような。

どんな趣味においてもそうだが、ある趣味に向かわせる性向が、単純な享楽から義務感へと転換するターニングポイントが存在する。子どものように楽しむだけだった個人が、ひとつの文化の担い手、継承者として自覚するような瞬間だ。

AKBのような俗な事柄でもそうで、単純にアイドルを眺めることを楽しんでいた人に、「自分がアイドルを支えるんだ」という奉仕の精神が発生する。それによって、CDを数千枚買うというような、単なる趣味という枠組みでは考えづらい事態が発生する。あのビジネスの恐ろしいところは、そういう精神(ある意味で崇高な精神)をも食い物にしてしまうところで、結果的にはアイドルではなく事務所を肥やさせるだけである。※

とは言ってもぼくの転換は小さな転換で、ただ太宰治よりはフーコーを読まねば、という程度の違いなのだけど。


ぼくらはひとりで生まれてきたわけではない。人工授精によって「フラスコの中で生まれた」という人があるとしても、両親のDNAを引き継いではいる。そこには必ず関係性がある。それでも、ぼくらは独立した個人として、一つの人格を持っていると思っている。自分が今この瞬間に自由ではないと思っている人があるだろうか?あなたも、ぼくも、次の瞬間に白目を剥いて「オッパッピー!」と叫ぶことが可能なのだ(もちろんしないことも可能だ)。この自由の概念は、自分が他者から切り離された、独立した個人であるという前提から生まれるものである。

しかしぼくらの精神はどこまで独立しているのだろうか。どこまでが自分本来の、固有の精神なのだろうか。実際のところ、全ての精神は借りものなのではないか。例えば、何かの思想を持ったとしても、そのルーツは書籍であり、友人であり、教師なのである。何かしらの人、物、出来事に還元できるのだ。

ぼくらの精神をひもといて見ると、自分固有のものが何もないことに驚くだろう。たしかにぼくらの精神はさまざまな要素が脈絡なく構成されているが、オリジナリティーといえば、ただその要素と要素の「関係」にのみあるのであって、「要素」それ自体はすべて借りものである。だいいち、ぼくらが思考するその「言語」自体が借りものなのだ。これはけっこう非情な事実である。

ヘッセは「人間とは幾層もの皮が重なったたまねぎだ」というようなことを言った。自分を探ろうと思って外皮を剥いていっても、現れるのは次の「皮」ばかり。最後の一枚を剥いてみると、そこには何もない。

人間とはそのようなものなのかもしれない。そもそも、ぼくらの肉体が借りものである。ぼくらは人間である以上、何かを食べなければならない。動物でも植物でもいいのだが……。ともかくそういった生き物である以上、何かに依存することを強いられ、独立は不可能なのだ。

ぼくはこの事実を長いこと認めたくなかったが、最近になってようやく受け入れられたという気がする。ぼくはずいぶん傲慢に粘ったものだ。ぼくは君とは違う。独立した個人なのだ。君と趣味が違うとしても当然だ。ぼくをそっとしておいてくれ、と……。しかし、自分のことを知るにつれ、その肉体も、精神も借りものだけで構成されていることに気がついた。そうしてみると、自分の態度は滑稽なものだった。

ひとつの義務感がぼくの中に芽生えている。精算する、という必要だ。精算とは、借りたものを返すということに他ならず、ついでに多少の利子も付け加えなければならない。

享楽から義務への転換。ノーブレスオブリージュとはいうが、富める者や賢い人間は概ね、義務の世界に生きている。普通考えられていることとは逆に、かえって愚者や貧しい人間ほど、気ままに享楽的に生きているものだ。ぼくはできることなら前者でありたいと思う。

人間を最も根本的に分類すれば、次の二つのタイプに分けることができる。第一は、自らに多くを求め、進んで困難と義務を負わんとする人々であり、第二は、自分に対してなんらの特別な要求を持たない人々、生きるということが自分の既存の姿の瞬間的連続以外のなにものでもなく、したがって自己完成への努力をしない人々、つまり風のまにまに漂う浮標のような人々である。「大衆の反逆」オルテガ・イ・ガセット


※AKBファンの他に例をあげるとすれば、AVGN(Angry Video Game Nard)か。彼はクソゲーを批評する動画を制作しているのだけど、そのクオリティーは映像作品として非常に高い。彼はファミコン世代の一プレイヤーだったが、今でもクソゲーを愛好するとともに、レゲー(クソゲー)文化の発信者として一翼を担っている。

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