11.09.2014

構造主義だった

昨日、構造主義に関する本を読んでいたら笑ってしまった。ぼくがこのブログで書いていたこと、発見したと思っていたこと、それは構造主義だったのだ。
しかしぼくらの精神はどこまで独立しているのだろうか。どこまでが自分本来の、固有の精神なのだろうか。実際のところ、全ての精神は借りものなのではないか。例えば、何かの思想を持ったとしても、そのルーツは書籍であり、友人であり、教師なのである。何かしらの人、物、出来事に還元できるのだ。
昨日書いたこれも、(かなり稚拙な)構造主義でアリマス。 もっとも、「人、物、出来事」の次にさらに普遍的な「構造」に還元しなければならないのだけど。

ぼくは構造主義を学んだことはない。直接的に学ぼうとしたのは昨日読んだ本が初めてだ。しかし、すでに現代はポスト構造主義の時代だ。構造主義は世界に十分行き渡った。ぼくの周りにも構造主義が取りまいている。勝利した思想は書籍や知識層にとどまらず、大衆へ、大気へと、ヘゲモニックに浸潤していく。

だから、ぼくは極めて構造主義的に構造主義的技法を身につけ、そして構造主義を「発見」したのだ。わかりにくい表現だが、事実はこうなのだ。このバカバカしさ!愚鈍なぼくは、今更のように構造主義を発見して喜んでいた。アホだ。勉強不足だ。

やはり、体系的な勉強は不可欠だと思われる。哲学がやりたいんだったら、気ままに好きな本ばかり読むだけではいけない。網羅的に教科書的に学んでいくこと、退屈だがこのことが必要という気がする。そうでなければ、ただ浮遊する点を集めることになる。教科書的な学習は、その内容を学ぶのが目的ではない。それを踏み越えるために必要なのだ。だから編み目状で立体的な体系的知識が必須なのである。点を足場にしていてはいつか滑り落ちてしまう。

ところで、ガザーリィの「中庸の神学」を読んでいたら、著者がこう言った。「私はイスラムを学ぶために、哲学、神学、スーフィ派...を学ぶ必要があると考えた。四百人を相手にする講義で連日忙しかったが、哲学については二年間ですべてを学んだ」。ぼくは驚いた。二年で哲学を修得するなど、天才の仕事だ(実際ガザーリィは天才なのだろうが)。

でも、よく考えてみるとそれは西暦1000年に著された本だった。当時は哲学といえば、アリストテレスやプラトン、ソクラテス、他デモクリトスやヘラクレイトスのようなギリシャ哲学に限局されていたのだ。なんて平易な世界だったのだろうか?

今はヘーゲル、カント、ハイデガー、ヒューム、ラカンのような哲人たちの難解な思想が展開されている。展開された思想は閉じられることを知らない。ヘーゲルひとつ研究するのだって、数年はかかるだろうに!ぼくの手元にはジャン=リュック・ナンシーの「自由の経験」という哲学書(ナンシーの博士論文らしい)あるが、これを読みとくにもたぶん半年はかかる。

そう考えると、現代は恐ろしい時代である。人間が「総合知」を得るのは難しい。人は断片的な知性しか手に入れることができない。人生はせいぜい八十年しかないのだ。その中でも哲学書なんて読もうという年齢はさらに限られる。

まあともあれ、日々勉強していくことが大事なんだろう。ぼくは無知に気づけた。それも一歩前進ということで、こっぱずかしいけれども、喜んで受け入れたい。

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