11.03.2014

ZACKY - 雑記 - YKCAZ

ぼくは正しい方向に進んでいるのだろうか、と思うことがある。とくに友人たちと話しているときだ。彼らが快活に話す生活のこと……恋愛、結婚、不動産情報、仕事、うまい飯屋について。これらすべてをぼくは捨て去ろうとしている。

ぼくはただ、書物と、音楽と、静かな散歩さえあればもう何もいらないのではないかと思っている。生活の必要事たち(多くのひとがそれに楽しみと期待を抱いている)は、ぼくを現実に引き戻すtroublesomeな厄介事としか思えない。

ぼくの権力意識のなさは人並み外れているようだ。世間的な出世に興味がない。また、出世をしている人にも何も感じない。大学の教授など、朝から晩まで研究して、それでも業績は科学のほんの些末な一領域の前進に過ぎず、給料はそこそこ貰っているが、いろいろと見合わないなあという気がしている。だからぼくは普通の学生のように教授に接することができない。気のいいおっちゃんがいるな、というくらいだ。
分裂病の人びとは、人間の階層のなかでの自分の地位についての現実的感覚を発達することができない場合が非常に多い。それは彼らが、非常に初期の段階で、同輩との誠実な相互作用を止めたからである。(「創造のダイナミクス」アンソニー・ストー)
ははあ。記憶はないけどたぶんそういうことがあったのだろう。

誠実な相互作用とは何だろうか。いわば、社会のルールの中でがんばることだろう。社会とは慣習の集合体であるから……。普通の感覚で、受験戦争に勝ち抜き、就職戦争に勝ち抜き、出世競争に勝ち抜いた人間に勝利が与えられる、そのようなルールの中で生きていくことだろう。社会的な人間(彼らはトークスキルと清潔さ、手入れの行き届いた髪で判別できる。髪は社会性がよく表れる)は本当にそのように生きてゆく。

また、楽しむことにしても、彼らは本当に単純で、ライブ・イベントとか、ちょっとお高いレストランが最大の楽しみなのである。間違っても、ストラヴィンスキーに異様な恍惚を感じたり、ペソアを読んで「これは自分だ」なんて思わないわけですよ。

でも、実際彼らは鈍感だし、その分幸福になれるだろう。

ぼくらの不幸と美的感覚は親戚であって、元を辿れば感覚の鋭敏さにあるのだ。閾値が低いのだ。ぼくらはちょっとした刺激でも痛むのだ。不幸にできているのだ。

……そういえば、昨日「はたらかないアリに意義がある」という新書を読んだ。大変感心した。はたらきアリの集団には必ず二割だけサボっているアリがいるがあれは生物学上何の意味があるのか、ということだった。

はたらかないアリは「はたらかなくては」と思うまでの閾値が高いのだと。人間でも、部屋が少し汚れただけで掃除を始める人がいれば、多少汚れても気にならない人がいるのと同じだ。はたらかないアリは巣に危機が訪れると「そろそろやべえな」と働き出す。これによって、結果的に巣の存続は長らえる。まあ細かい理由は忘れたが、彼らにも意味がある、という結論だった(適当)。

ムシ社会を人間社会に単純に当てはめることはできないが、ぼくらの神経が鋭敏であることにも理由があるに違いない。単純に言って、極わずかな色の違いが判別できる人間は有用だろう。音感を持っている人間は有用だろう。芸術とはすべて微細なバランスを要求されるものである、少し多くてはダメ、足りないとダメ、というぎりぎりの境界上を目指さなくてはならない。その意味では「鋭敏者」は芸術向きである。(職人向き、とも言える。語源を辿ると芸術家と職人≒技術者は同義だ)

また社会的意義としては、小さな変化に気づけるため、予言者として機能するのではないか。というとスピリチュアルだが。例えば山のささいな変化や、地鳴りに気づいて土砂崩れを予言したりということはできるだろう。現代社会においても遠からぬ経済崩壊を予言する、などに向いているのかもしれない。

ぼくらは不幸に生まれたが、そのことに意味があるに違いない。その意味に気づけないとすればそれが本当の地獄だろう。ぼくの知人は、自殺してしまったり、人生に意義が見いだせず引きこもってしまう人がいた。ぼくも過去の自分は地獄にあったと思う。このような人にとって必要なことは「幸福」ではなく「意味」なのである。

何が言いたいのかよくわからない。今日はだいぶ適当に書いた。そういう気分。

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