12.07.2014

田舎はひとり暮らしの4LDKを可能にする

昨日の実存の危機みたいな日記は何なのだろうか。このブログもなんとかせにゃならんなあ……。


今日は勤務先(田舎)の近くの賃貸物件を探していた。

前まで狙っていた一戸建てはだれかにとられてしまったようだ。木造平屋の2LDK、こじゃれた洋風の建物で庭付きで、海までバイクで5分、周りは田んぼだらけという好条件だったのだが。家賃は65000円。

今狙っているのは鉄筋三階建ての4LDKである。ぱっと見は中流家庭のマイホーム、駅まで徒歩五分(田舎では電車はほとんど機能しないが)、最大の魅力は電動シャッター付きの車庫(自動車二台)があることである。家賃は82000円。けっこう高いが、住宅手当がつくので、今住んでいる三万円の六畳アパートよりも安くなる。難点は、周りが住宅街であり、近所づきあいがめんどうそうな点と、部屋が多すぎて使い道がわからないこと。ひとつは楽器の部屋にしたい。ひとつは書斎にしたい。こう考えても、余ってしまう。

それにしてもちょっと考えられないな、東京の感覚では。夢の一戸建てがあまりにも近すぎる。



他人と異なることは、成功の必要条件のひとつだが、あえてそれを試みる人は非常に少ない。(キングスレイ・ウォード)

ひとと違う道をゆくということは、確かに成功の近道だという気がする。だれもかれも東京に行きたがるが、その結果人口過剰となり、せせこましいうさぎ小屋に住まなくてはならない。東京のうさぎさんたちは、「給料の1/3を家賃の目安にする」らしいが、一日九時間とみて、そのうちの三時間を家のためにはたらくというのはずいぶん実りがない。もっとも、労働とは本来そういった類のものなのだろうが。

ぼくは本と音楽があればどこへでも生きていけるという気がしている。そんな夢物語が可能になったのも二十一世紀のインターネット文明と日本郵便および佐川急便のおかげである。昔であれば、本好きは神保町近くに住まなければならなかっただろう。しかし今では古い岩波文庫でも、マイナーなCDでも、検索してワンクリックで届く。

東京はたしかに好きだ。いろんな人がいるし、いろんな人がいることが許されている空気がある。ただぼくは人混みが大嫌いであって、街をぷらぷらうろつくという、都会人特有の享楽を味わうことができなかった。田舎育ちのぼくにはそういう才能、一種の嗅覚がなかったのかもしれない。が、まあ、こうした理由でぼくが住むのは田舎でいいのである。

十年ほど前には、インターネットによって東京の一極集中はなくなるだろうと考えられていた。なにもバカみたいに高い賃料を払ってオフィスを東京にかまえる必要性はなくなったからである。しかし、企業も、個人も、東京の一極集中は変わらない。その理由は合理的なものではない。ほとんどが、ただの慣習である。

慣習とは恐ろしいものであって、多くのひとがそれにコントロールされている。東京にいけば何とかなるだろう、一流大学に行けば何とかなるだろう、大企業に入社すれば何とかなるだろう。「何とかなる」。なぜならだれしもそれを目指すからだ。だれしも望むということは価値があるに違いない。そうして空虚な価値が膨れあがる。これはバブルと同じ構造である。ということは、資本主義的な精神と言ってもいい。

つまり、「人がモノを欲しがる原動力は、そのモノを、自分だけではなく、他者も欲望しているということの発見から生まれる」というわけだ。
 資本主義経済というものは、人間がモノを欲しがるという衝動がないと、ドライブしていかない。他人のモノを奪っても、自分が手に入れたいと念じるほどの強い衝動がないと、資本主義は大きく成長していかない。(恋愛は罪悪である ― 漱石『こころ』100年/町田の独り言

ぼくがいま思いついた許せないことが三つあって、ひとつは道義的に何も悪いことをしていないのに「お騒がせして申し訳ありませんでした」と謝罪する著名人である。もうひとつは履歴書をいまだに直筆で書かせるアホ企業である。最後は原付の二段階右折と時速30キロ制限という法律である。こうした不可解な行為や制度はまさしく慣習以外に説明できないものであり、日本精神の病理を映し出しているといえるだろう。

まあ、どうでもいいことを書いた。最近どうでもいいことしか書いていない。勉強が忙しくまともに読書できていないせいもあるだろう。今読んでいるのはインド哲学の本である。ほんとうに、インド哲学は良い。最近、自分の思想が神秘主義の方向に傾きつつある。年齢のせいか、日常がずいぶんつまらないものになった、一年前のぼくは、大変不幸な存在だったが、それだけに尖っていた部分があると思う。幸福になることで失うものは多い。簡単にいえばバカになる、バカになったから幸福なのかもしれないが。結局、何もかも等価なのだ。金持ちも貧民も変わらず、健康者も病人も変わらない。一国の王だろうと暇がないことを悩むものである。だれもかれもが不幸という点では平等である。幸福な人間は目が見えていないのであり、不幸な人間はぼくらの同類である。そう考えると、もうだれかを羨むということがなくなるものだ。成功に溺れることも、不幸を悲しむということもなくなる。そうした人間が、賢者というべき人物なのだろう。

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