12.05.2014

alcholic dilettante

自分というものを見ることは楽しいことだ。ぼくにとってぼくは唯一の存在者である。ぼくにとってぼくは唯一無二であり、全てである。同じように、すべての人にとって、自己という存在はひとつであり全てであると思う。

結局世の中の偉人とか、天才というものは自分をどこまで見つめ語り合ってきたかに過ぎないという気がしている。筋骨隆々とした人は、スポーツ選手になるなり、肉体労働をすればよろしい。ひょろひょろで内気な人は、学者なり、オタクになればよろしい。キェルケゴールがレスリングをしても最弱だろうし(ぼくでも倒せるだろう)、かといって吉田沙保里が哲学したところでねえ。オタクはリア充にはなれない。ならなくていいし、なろうとするから不幸になるのだ。

ぼくはキーボードを叩いているイマココで存在している。生きている。実存しているか、は知らない。ぼくは最近生きているという気がしない。まったく、何もかも失敗しているという気がする。

ぼくらはただ生きているだけでも、いろいろなイベント事がある。大学を卒業しなければならないということも、ひとつのイベントだ。けっこう大きなことだから、ぼくの同級生は、来年には卒業なんだということを意識している。それによってイマが彩られている。友達は大事にしよう、残された時間を大事にしよう、なんて色づいてはしゃいでいる。しかし、大学を卒業することがなんだというのか。根本は何も変わってはいない。ぼくはどこまでもぼくである。彼もどこまでも彼である。

やはり、人間の内側には大海がなければならないと感じる、山よりも深いトラフを持っていなければならない、と思う。外界のどうでもいいこと、人生の波乱に惑わされない自己を養成しなければならない。「人生の及ばない自己」。こんなことは可能だろうか?ぼくらは人生がすべてだと思っている。人生の中に世界があると信じている。ところが、人生とは別個のところに、自己があると考えることもできる。精神と肉体の及ばない自己。

ぼくの今使っている「日本語」の言葉は借りものである。ぼくの理性は言葉でできている。ゆえに、理性は借りものである。借りものである、ゆえに本質ではない。これで神秘主義以外の西洋哲学の半分を論破できるぞ。アリストテレスは西洋史最大の罠であった。人間には、言語を疑ってかかるということは決してできないものだ。疑うという行為も、言語的であるから。

まあいいや。今日はもらい物のワインを消費しなければならない。女にワインをあげたら、お返しにワインを返された。そのワインだ。明日から酒を飲むわけにはいかないし、捨てるわけにもいかないので、今日のうちに飲み干しておかねばならない。

酔ったので、何でも書けるという気がする。まあだれも読まないのだが。ぼくは恋愛において無様であることがわかったので、もう恋愛はしないことにしている。ぼくは恋愛をするようには、できていない。だから、もはやカップルを見ても何も感ずることはない。しかしニーチェもカントもショーペンハウエルも惨めな恋愛をした、このことを考えると悲しいことである、恋せざるを得ない人間存在の哀れさを感じる。

現実主義の人間は幸福であり、理想主義の人間は不幸だということができるだろう。実際には現実主義の人間は近い理想を見ているのであり、理想主義は遠くの理想を見ているだけの違いにすぎないのだが。理想主義の人間は、恋愛でこっぴどい目にあう。そしてすべての哲学者は理想主義者である(プラグマティズムもひとつの理想である気がしている)。

まあどうでもいいや。書くということは不思議なことである、ぼくはつぎつぎに書くことをしているのだが、書くことが連続していると、それはより緻密さを増すようである。たとえばAについて書いたとすると、もうAのことは興味がなくなる。そしてBについて書く。こんどは、AとBを組み合わせて書きたくなる。そうして、どんどん緻密に、敷衍してゆく。これは不思議であるし、楽しい行為である。

しかし、問題点もある、書いているだけではダメだろう、ぼくのしていることは正しいのか、いよいよ考えねばならなくなってきた、ぼくのしてきたことは正しくないという気がしているし、何かを変えねばならない、という気がしている。ぼくは大学を卒業してからしばらく、しばらくとは数年間だが、読書によって自分の精神を高めようとしている、ぼくは孤独を厭わない、社交はかえって自分を貶めるものだと思っている、だからひたすらに読書をしようというのだ、社会学、心理学、哲学、文学、それと格闘してやろうというのだ、しかしその結果何が生まれるだろう?偏屈で、何の価値もない、ディレッタントのおっさんではないか。物知り顔の、ひとりよがりの、さもしい偏屈じじいである。

ぼくは確かに書いている、毎日こうして、千字以上は書いているけども、それが何かを生むということはない、やはり半年くらい前に書いたように、糞便の堆積でしかない。

ぼくという人間は、たしかに、悪くない人間だと実感している、ということはつまり、自分が無能であり、無知であると知っている人間は、まずまず悪くないのである。だからぼくは自分で自分を褒めてやりたいと思うこともあるのだ。それは無知の知と言うべくか、ともかく無知であることを知っている。

ぼくは普通の人生を望むのではない、しかし、何も達成できそうにない。悲しい人間だ、と鏡を見て思う。

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