12.12.2014

選挙について

叫び声があがるところに良き認識はない
Dove si grida non e vera scienza (ダヴィンチ)

ぼくは政治を知らない。

このように断言できてしまうことも、日本特有だと思う。ひとは国政なんて知らずとも生きていける。

ひとは昨日見たテレビのことを話すことを許されても、政局のことを話すわけにはいかない。政局の話と野球の話は、かつては対立を生むから良くないとされていた。それはたとえば共産党支持者と公明党支持者ではまっこうからぶつかってしまうからだ。巨人ファンと阪神ファンみたいなもので。

ところが、今は少し意味合いが違うように思う。政治について話すことが一種のタブーになっている。性の話のように、みな、ひそひそと政治について話さなければならない。大声で政治的主張をあげる人は「わけあって」そんなことをしているのだ、と思われる。エロいことばっかり考えている人間がろくでもないように、政治なんて考えていない人間の方がまともなのだ、と考えられている。

ぼくは現在理系の大学に通っているのだが、選挙の話など一切ない。まるでだれも有権者ではないかのようだ。もっとも、各々個人的に考えてはいるのかもしれない。だいたい、政局に極めて重要なポジションに公明党というトピック的な爆弾があるのも理由である。バックに集団監視と言論封殺のおそろしい団体がいるのだから、口に出すのがはばかられる。

某学会さんがタブーというのは悲しいことである。マスコミにはがんばってもらいたい。サウス・パークやシンプソンズのような風刺アニメなら真っ先にとりあげることだろう。(皇室はネタにされている:シンプソンズ「Thirty Minutes Over Tokyo」、サウスパーク「Chinpokomon」)



ところで、偏向報道とは日本にしかなく、ゆえにマスコミが批判される社会も日本だけなのだという。欧米では、報道で批判されるとすれば放送会社ではなく情報発信者個人であるとか。情報発信者の情報が恣意的に編集(改竄)されることがない国ではそうなのだろう。

マスコミの異常な行動、改竄の数々は、列挙してもよいが、血圧があがりそうなので辞めておく。

記者クラブという小学生でも「それはあかんやろ」とわかる談合システムも日本だけらしい。もちろんあらゆる国から批判されている。

本当に、マスコミはガンだ。しかし、ぼくはマスコミが諸悪の根源ではないと思っている。結局、マスコミは有機体の分子のひとつであり……。マスコミがフリーメイソンに操られている、と言うつもりはないが、構造的に統制されていることはたしかだろう。そしてその構造に必須な要素として、「不平を言わない愚民」であるぼくらも組みこまれているのである。



SASPLという学生団体が話題になっている。SASPLとは「特定秘密保護法に反対する学生有志」の略だそうだ。スタイリッシュな動画やデモ行進で打倒安部を呼びかけている。




デモの動画も見たが、たしかにかっこいい。

ぼくの実家はたいした娯楽もないド田舎なのだが、遠くから花火やお囃子の音が聞こえてくると、うずうずとした「たまらない」気持ちになったものだ。同様の「参加したい」衝動をこのデモに感じる。

でも、自制しなければならない。

そもそも、ぼくは特定秘密保護法というものを知らない。とくにそれに反対する必要も感じない。安部はファシストだ、という意見が主流になっているらしい。ぼくは町内会がファシズムだと思うが、安部は別にファシストだとは思わない。

この前も、ネット上で児童ポルノ法案に反対する一大キャンペーンが行われていた。ぼくはこの法案に賛成なので、なぜみな反対するのかわからなかった。反対理由に「表現の自由が侵害される」とあってちょっとぼくは怪訝に思った。

たしかに国民には表現の自由が憲法で保障されている。しかしそのあとには「又、国民は、これ(この憲法が国民に保障する自由及び権利)を濫用してはならないのであって、常に公共の福祉のためにこれを利用する責任を負ふ」とある。好き勝手表現していいとは書いていない。児童ポルノは明らかに公共の福祉を害するだろう。

また基準が曖昧だという意見もあるが、基準を厳格にしてしまえば必ず抜け道ができてしまうのであって、だから曖昧にするというのは当然である。その都度裁判で、有罪か無罪かを決めていくものだ。

たしかに、無罪でも逮捕はされるだろう。しかし逮捕とは犯罪者だけに行うものではない。「有罪と疑わしいひと」になされるものである。だから逮捕された瞬間に社会的生命が地に落ちたり、職を失い、嫁に離婚宣言されるとすれば、それはその社会の方がおかしいのである。だいたい、逮捕されても半分は不起訴だ。

だから児童ポルノ法案には反対すべきではない。問題は、逮捕されただけで断罪する社会であり、無罪になった容疑者を救済する制度を作るべきだと思う。

ともかく、児童ポルノ法案のあの一大キャンペーンは、ヒステリックな痙攣に近いものとぼくは感じた。だから、今回の秘密保護法についても、ぼくは冷静にあろうと思うのである。

安部ちゃんは森義朗派のひとりであるらしい。代表的な森派は小泉純一郎、福田康夫とある。森はマスコミに潰されたかわいそうな人であり、小泉は天才的政治手腕でアメリカに国を売った人であり、福田はまあ少し有能という印象だ。安部ちゃんもその流れを汲む一森派であり、いままでと大して変わらんなあというのがイメージである。

個人的に、安部なんて否定するくらいなら、町内会を廃止せよと迫るべきだし、記者クラブを廃止せよ、と声をあげるべきだし、選挙カーのキャンペーンはうるさいから辞めろ、とデモするべきだと思う。

やっぱり、かっこわるいのだ。安部ちゃんは日本のトップということになっている。日本のトップが悪人だったら、それは紛れもなく巨悪である。巨悪であるなら、それに立ち向かう市民は絶対的善であり、ドラクエの勇者のようにかっこいい。

ところが、町内会はどうだ。町のみんなが善意で行っている集団である。だれも権力も悪意もない集団である。ところが、本当の巨悪とは、こういうところにあるのだ。

上意下達的な「わかりやすい」権力構造モデルは、フーコーによってすでに喝破されている。フーコーは「権力は人と人との間で働く『力』である」とした。

新しい権力構造は
・上から押さえつける権力ではなく、むしろ横や下からひそかに働くような見えない力
・毎日の生活の中で、「自由」におこなっている行為を律している力。
・禁止する権力ではなく、むしろたえまない「訓練」を要求する力。(フーコーの権力論
上記のようなものだとされる。改善すべき権力構造は、われわれの人と人との間にある。虚像のなかにあるのではない。



だらだら書いてしまった。昨日町内会を発端として日本社会をいろいろ調べていた。政治、意外とおもしろいぞ。とくに白川司郎という人物が気に入った。日本でもこうして政治的に暗躍するひとがいるんだなあ。また、麻生太郎の盟友・中川昭一がポロニウムによって殺されたという噂も、おもしろい。

しかし、政治の話というのはどうも雑多である。どのようにでも解釈できるものであるらしい。安部がファシストだ、と言われればそんな気がするし、安部は日本の救世主だ、と言われればそうかなあと思う。このような話題を扱うには、高度なリテラシーが要求される。リテラシーとは批判精神である。情報取捨だけでなく、倫理学や哲学などを修養した人間的基盤が必要となる。政治は、興味深い。だてに古代ギリシャからひとが没頭していたものではないようだ。しかしこのような実学についても、ニーチェやフーコーが役立つというのは、ほんと学問様々だと思う。

*特定秘密保護法、十二月十日の〇時に施行されていたらしい。ほんと疎いなあ。

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