12.13.2014

権力について

昨日は一日権力について考えていた。

実学的な学校の講義がまったく頭に入らなかった。一日、権力はどこからやってくるのか、考えていた。

ここ数日町内会のことばかり書いていた。町内会がファシズム的であることがわかった。それは直感的にも歴史的にも信頼に足ることである。しかし、この町内会においてはたらいている力は何ものだろうか?

そこをどんどん辿っていくと、日本人という国民性にぶちあたる。日本人の国民性、それは「自主的にサービス残業をする」国民性、「自主的に列に並びたがる」国民性、などである。日本には外国に見られない特異的な現象が数多くある。なにかそれを説明する共通する普遍的な背景があるのではないかと思った。

しかしこれは国民性という単純な言葉では片付けられないとぼくは考える。ぼくらは実際のところ、サービス残業なんてしたくないからだ。しかし実際には圧力によってあたかも自主的かのようにさせられている。そこではたらいているのは何かというと、紛れもなく、「権力」である。

日本人のすみずみに浸透した権力、ぼくとモノ、ぼくと行為、ぼくとあなたの間に存在する権力。見えないようでいて、ぼくらの周りを取りまいているエーテルのような権力、これが何ものかをぼくはつぶさに考えてみたいと思ったのだ。それは非常に重要なことなのである。なぜなら権力は可能な限りぼくらを支配しようとし、集団に埋没させようとし、それによって個人主義と民主主義を破壊する力を持っているからである。

ぼくとしては、すでに権力を説明するひとつのイデア的な解答ができてしまっている。
つまり、権力の源泉は「集団=組織の持つホメオスタシス(恒常性維持機構)」である。(ホメオスタシスとは何ですか⇒google it.

もっともこんな生半可な思いつきは今後勉強していくうちに否定されていくだろう。ただ、あるひとつの立脚点をもって読書をすると楽しいものである。

この権力=ホメオスタシス論はフーコーの影響が強い。
「権力の関係は、意図的であると同時に、非ー主観的である」「隅から隅まで計算に貫かれている」が、「権力が個人である主体=主観の選択あるいは決定に由来することを意味しない」「権力の合理性とは」「戦術の合理性であり」「最終的には全体的装置を描き出すところのものだ」「しかしそれにもかかわらず、それを構想した人物はいず、それを言葉に表した者もほとんどいない」(性の歴史 知への意志) 
そう、この「全体的装置」をホメオスタシスとしてぼくは捉えている。

それにしても、この権力の定義はすごい。ずいぶん革新的な発想である。
ヴェーバーは権力をこう定義した。

権力(Macht)とは、ある社会的関係の内部で抵抗を排してまで自己の意志を貫徹するすべての可能性を意味し、この可能性が何に基づくかは問うところではない(社会学の根本概念)

フーコー的な権力論とはずいぶん毛色が違うことがわかるだろう。

権力!これをしばらく研究したいと思う。社会学以外にも、心理学、民俗学的なアプローチも必要だと思う。

これまでに、どんな重要なことも、どんな現実も見られ、知られ、言われたことがなかった――そんなことがありえようか?人類は何十万年ものあいだ観察し、考察し記録する時間があったにもかかわらず、生徒が林檎とサンドウィッチを食べる学校の昼休みのように、この長年月を空費してきたなどということがありえようか?
然り、ありうるのだ。「マルテの手記」リルケ

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