12.09.2014

町内会ファシズム

田舎に引っ越すことが決まっているので、どうせだから借家を借りようと思っている。そこで懸念すべきなのが、自治会や町内会というシステムである。マンションやアパートなら公益費でゴミ出しや敷地内清掃、自治会とのやりとりなど勝手にやってくれるのだが、一軒家であると自分で行わなければならない。
大都市であれば制度自体が形骸化しているらしいのだが、田舎であればどこでも自治会への入会を迫られるようである。

自治会の活動は主に、運動会や飲食会、祭り、町内の清掃活動などである。こうした活動は主に土日に行われる。祭りと清掃がそれぞれ年に一度というところもあれば、年に六十回行事があるというところもある。実に週に一度は行事があるのである。


町内会運動会のムカデ競争
こうした行事が最大の楽しみという人(主に高齢者)もいるだろうが、「休日は寝ていたい」「ゲートボールなんてしたくない」という人も当然いる。またこうした活動の資金については会費という形で徴収される。年に数千円というところもあれば、数十万円とるというところもあるので、負担は小さくないことがある。



本来、自治会というものは任意で参加すべきものであるとされている。任意であるということは、自分が主体的に参加したいと思ったときに参加する団体という意味である。だから地域住民とソフトボール大会やお花見を楽しみたい方はご自由に、ということになる。ところが、移住者は半ば強制的に自治会への参加を迫られているのが実態である。

「参加するというまで毎日くるよ」と連日会員の訪問を受けたり、「ゴミステーションを使わせないぞ」と脅すこともある。

ゴミ問題について

自治会の重要な活動のひとつにゴミステーションの管理業務があるらしい。これは自治会員が輪番で行うものであり、その日の担当者がゴミをカラスから守ったり、ゴミステーションの清掃を行うというものだ。分別が不十分で収集車が回収しなかったゴミ袋を持ち主に突きかえしたり、持ち主がわからなければ自分の家に持ち帰り、一時的に預かるという仕事である(!)

自治会不参加者はこうした義務を免れているため、ゴミステーションに「ただ乗り」していると見なされる。だから、自治会は「使わせない」と息巻くのである。ある意味、理に適っている。が、どうもしっくりこない。

ゴミをゴミステーションに出せないとなればそのゴミはどうすればよいのか。これは、市町村の焼却場に持って行くというのが一般的である。各自が自転車や車でゴミを運んで、申請書を書いて燃やしてもらう。ぼくの引っ越し先の市を調べてみると、持ち込みの場合の受付は平日の九時から十六時までとなっている。これでは独身者や共働きの夫婦は無理だろう。また、自動車の運転できない高齢者も実質不可能ということになる。よって、「ゴミ捨て場を使わせないよ」という言葉は強制力を持っているように思える。実際に自治会の班長の大半はこうした脅し文句で参加を迫る。

任意(にんい、arbitrariness)とは、思うままに任せること、という意味で、当人の自由意思に任せる、ということである。(wikipedia

ところで、市町村にはゴミを回収し公衆衛生を守るという義務がある。実際にゴミ捨て場を設置するのは市町村であり(自治会に委託する場合もあるが、補助金が出る)、ゴミ回収を行うのは市町村に委託された業者である。

だから、自治会が「ゴミを出させない」権限など持っているはずもなく、自治会未加入者のゴミステーション利用は法的には問題がない。実際にそういう判決もでている。

「ゴミステーションを利用するなら清掃もしろ」という意見は一見もっともであるが、そもそもなぜ市町村のような自治体が責任をもってゴミ捨て場の清掃をしないのか、腑に落ちない。

アメリカではゴミ捨て場の管理は行政が依頼し、民間業者が行っているようである。当然清掃も業者が同時に行う。清掃を怠れば、業者にクレームがいく(ゴミコンテナに電話番号が書いてある)。

日本でも市町村の委託で民間業者がゴミ回収を行っている。ところが、彼らはゴミを回収するだけで清掃をしない。いくらゴミ捨て場ひどいことになっていても、見て見ぬ振りだ。これはまったく不思議なことである。



なので日本では、ゴミ捨て場の清掃が自助的な任意団体に任せられている。もしもこうした任意団体がなければどうなるだろうか。ゴミ捨て場は悪臭を放ち、景観を損ね、感染症の温床ともなる。美観を損ね、市民の健康を害する状態となっても市町村が改善しないというのであれば、それは市町村の怠慢によって国民の権利を侵害していると考えるのが自然である。

町内の清掃活動についても同様で、もし市民の私的で任意の活動がなければあちこち汚れて住めたものではないとすれば、その原因は市町村の怠慢にある。

実は、ゴミ捨て場をきれいにしているのは我々の自由意志なのである。われわれは市町村の仕事を好んで肩代わりしていることになる(実際補助金も出ている)。しかし、地方に住むほとんどのひとびとが自由意志で行政の仕事をしているというのは、まったく不自然な構図である。


市町村「ゴミ捨て場をキレイにするよ!」
自治会「いえいえ、大変でしょう。私たちがやりますよ」
市町村「ほんとに?ありがとう、少しだけど補助金も出すね(ラッキー」
自治会「というわけなんで新参者さんも清掃しますよね?」
新参者「嫌です。なんで行政の仕事を私たちがするんですか?」
自治会「ふざけるな!お前みたいな奴のせいでゴミ捨て場が汚くなるんだ!」
新参者「」

ファッショ

自治会についてネットで調べているとわかるのだが、ネットのような自由な発言ができる場では実に賛否両論であることがわかる。「自治会がめんどくさい」「参加したくないが、しないと嫌がらせを受ける」といった意見がある。反対に、「住民の義務だから文句言うな」「助け合いだ」「自治会に賛同できないならよそ者は出ていけば良い」と過激な意見も目立つ。

これらの意見を見て思うのは、自治会の現実は自由意志による任意団体からはほど遠いということである。多くの人が「やりたくもない仕事を仕方なくしている」という事が透けて見える。そうでなければ、自治会の不参加者を執拗に攻撃するような発言はないはずだ。好きでしているのだから。


このような作業は、普通だれもがしたいものではない。


なぜ自治会は任意団体でありながら、強制性を持っているのか。そして自治会を抜けた人はなぜ執拗な攻撃を受けるのか。任意団体に参加しないというだけで村八分を受けるのはなぜか。

これらの謎は、「自治会はファシズムなのだ」と考えることによって氷解する。自治会や町内会の歴史を見ると、それが明らかにファッショの目的で制定されたことがわかるのだ。
元々は1937年の日中戦争の頃から日本各地で組織され始め、太平洋戦争の戦時下に大政翼賛会の最末端組織として1940年に市には「町内会」、町村には「部落会」が国によって整備されたのが起源であるとされる。戦時下には内部に「隣組」があった。戦前においては、戦争遂行に大きな役割を果たした。(wikipedia
1935年ころから内務省の指導下に全国的に普及し,40年に整備をみた市街地住民の自治組織であるが,内務省の地方行政機構の下部に位置づけられることによって,日本ファシズムの末端組織として機能した。(世界大百科事典 第2版「町内会」)

戦時中、もし反戦を唱えることなどあれば「非国民」であるとされた。それは憲兵だけでなく、市民からの密告も多かったことだろう。このように、日本はかつて市民が市民を監視するような全体主義国家だった。そしてその機能として町内会が寄与していたことは想像に難くない。(そのため、戦後はGHQによって町内会は解体された)

ひとは役人に命令されるとムッとするが、同胞である市民に命令されると従わざるを得ない。社会的に孤立することに耐えられる人はわずかだからだ。ファシズムは市民と市民の間に浸透していく。このようにして日本は全体主義を達成した。

全体主義は今でも残っている。その証拠に、「自治会を辞めたい」というとまさしく「非国民」的な扱いを受ける。ただ任意団体を辞めたにすぎないのにだ。戦争の後遺症がまだ地方に残っているということだろう。

ともかく、重要なことは町内会の起源は戦争利用のためだったということであり、全体主義的な性格を帯びており、市民が国にいいように使われるための道具であったことが、明白なのである。だから、市町村は「たまたま存在する任意団体」を手足のように使うことができるのである。
とりわけ第二次大戦期における全国民の「強制的画一化」(雨宮昭一『総力戦体制と地域自治』青木書店、一九九九年)の推進という歴史的経過をたどることで、現代の町内会の形ができてきたのである。(中田実『地域分権時代の町内会・自治会』自治体研究社、p.36)(孫引き元
なお、武蔵野市は町内会を廃止している。その武蔵野市は、財政上非常に優れた成績をあげているのだから皮肉な話である。
先進欧米諸国には、町内会・自治会のような組織や制度は存在せず、一方、国内では東京近郊の武蔵野市や小平市には町内会・自治会なる組織そのものがない。武蔵野市が1,000自治体中、財政状態の優れた自治体のベスト5(H17年度)にランクされているということは、横浜市の町内会・自治会が如何に巨額の税金を食い潰しているかを証明している。(「町内会・自治会は、本当に役立つことがあるか。」岸根正次)

ちなみに、岸根氏の指摘するとおりそもそも海外では自治会なんて存在しない。存在しないということは、特になくてもやっていけるということだ。「大多数の市民が迷惑するが、だれかの都合のいいため」に日本だけで続けられている。こうした事例は本当に多い。しかも、こうした圧力は官の方からではなく民からくる。あいつだけが得している、損を免れている、許せない!という考えの持ち主がもっとも全体主義的であり社会害悪であり、成功した上意下達の例である。

「俺だって嫌なんだからお前も会員になれ」という人がいるならば、こんな不思議で非効率的な風習は日本だけで行われており、市民が行政の仕事を肩代わりする必要は一切ないのであり、町内会の起源は牧歌的な村の助け合いなどではなく戦時中の市民利用にあったのであり、結果的に戦後の今でもあなた方は行政に利用されているのだが、自治会とは任意団体であり、嫌になったら解散しても何の問題はない、嫌になったら辞めればよい、みんなで辞めよう、俺は入らん、あなたも辞めよう。とでも言い返せばよいのではないかと思う。

終わりに

長くなったのでここらで終わりにしたい。

自治会のしている仕事は、市町村が本来行うべき業務である。自治会は任意団体であるにも関わらず、ほとんどの住民が参加しており、また参加しない住民は共同体からの過剰な排斥を受ける。その理由は、自治会の起源を辿ると明白である。自治会の起源は戦時中の市民統制のためにあった。自治会とは全体主義社会のなごりであり、そのため個は排斥され、自由は奪われる。

ぼくらに必要なことは、自治会の参加が嫌であれば参加を拒否することである。NOと言うことである。なんと言われようと、ぼくらは自由が認められた日本国民である以上、嫌なことは嫌だと言わねばならない。これは投票に行くのと同じくらい民主主義社会で大切なことである。半ば市民の義務と言ってもいい。

全体主義にNO、自治会にNO。これで強引にまとめる。間違っていることをたくさん書いていると思うのでご指導願います。

続き(町内会は地域を分断する)

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