12.19.2014

自分、すごい

完璧であるためには存在するだけでいい(「不穏の書、断章 」フェルナンド・ペソア)

自分というものを深く掘り下げていくと、自分というものはとうに完成されていて、知識や能力なんてつける必要はないものということが徐々にわかってくる。ある程度智慧や経験のある人ならわかるだろう。自分、すごい。重要な知識はつねに内側からやってくる。外から与えられることはない。

ぼくは自由に楽器を弾くことができ、こうして言葉を書き込むこともできる。友人たちと気軽に話すこともできる。何の不満も不足なし。

服を脱いで鏡を見てみたまえ。君はいっちょまえの人間だ。すべてが充溢して、滞りなく機能している完成体だ。君に一体何が不足しているのだろう?君はなぜ自分を完成させようと奔走するのだろう?君はなぜ余計なもので飾り立てるのだ?

君は人間として成熟した。完成した。美しい肉体と精神をもった一個の人間である。

あらゆる商品が、あなたを欠陥者だと思わせている。洋服がそう。車がそう。英会話教室、マッサージ機、宝石、サプリメントもそうだ。あらゆる人間が、あなたを服従させようとする。上司がそう。同僚がそう。妻や恋人、おともだち、警察、役人、宗教、人ごみ。

そんなものは必要ない、あなたに必要なことは……すべてを引っぺがすこと。すべてをなげうつこと。やんわりと強く、ノンと言い切ること。

完成されたあなたに、不足なものはない。あなたは間違ったことをしない。なぜならあなたは完全だから。


"Multiple Personalities" - Paulo Zerbato/2012


君は死人のような生き方をしているから、自分が生きていることにさえ、自信がない。私はと言えば、両手はからっぽのようだ。しかし、私は自信を持っている。自分について、すべてについて、君より強く、また、私の人生について、また、来るべきあの死について。そうだ、私にはこれだけしかない。しかし、少なくとも、この真理が私を捕まえていると同じだけ、私はこの真理をしっかり捕まえている。私はかつて正しかったし、今もなお正しい、私はいつも正しいのだ(「異邦人」カミュ)

私はかつて正しかったし、今もなお正しい、私はいつも正しいのだ」。

まあ異邦人ムルソーは死刑判決を受けるわけだけど。自己に到達することは秩序を乱すことなのだ。カミュはすげえなあ。すごい作家だよ、ほんと。


勉強とは外部からきたものを受けいれて、外部のために奉仕するためのものだ。読書は違う。良い読書はつねに、自分自身と向き合わさせる。作者が考えや心情を吐き出しているだけの作品もある。しかし、ぼくらはそこに自分自身を見つける。そうでなければひとりよがりの駄作だ。

というわけで、ぼくらの精神はどこかで通じ合っているということになる。あなたはぼくで、ぼくはあなただ。そうでなければ、二千年前のギリシャ人の著作を現代のぼくたちは理解できないはずだ。

ところで、集合的無意識はときを超越するだろうか?過去のひとをぼくらは知ることができる。もっとも、文献だけではない。遺跡や石碑、古墳、古道などから。それでは未来は?二宮尊徳は言った。「誠実な人間は未来のことを知ることができる」と。

インド哲学の究極の奥義は「梵我一如」である。梵とは世界、我とは自分のこと。世界と自己はひとつである。世界とは、どこまでを考えればよいのか。今この瞬間の世界か。インド哲学は、そんなやわなもんじゃないだろう。ぼくら人間は未来も、過去も、当然、銀河の外も、知ることができる。

ぼくとあなたの関係くらい、なんだというのか!通じ合えないわけがないのさー。

とポエマーもどきになって今日は学校へ行く。変な宗教にはまって頭がおかしくなった訳ではないので安心してください。

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