12.02.2014

自由意志について

ぼくという存在も、ヒト科のオスという運命を免れ得ない。ぼくはイルカではないし、カモメではない。ぼくはどこまで自分が自由なのかということを考える。自分のしている行動は、ほんとうに自分がしたいことなのだろうか。

行動心理学の最盛期(1980年くらい?)には、こうしたことがさかんに宣伝された。「人間には自由意志などない」と。つまりあらゆる人間の行動は、統計的にまとめうるものである。ある店に入った人物が、どこの席に着くか……これは彼の意志というよりは、彼の性質と、その店の環境によって決定されるのである。

「人間の空間」という本を読んでいると、ある行動科学の研究が紹介されていた。バーにひとりでいる人物が、他の客と会話し、うちとけるまでどれくらい時間がかかるのか観察する、というものである。大抵の人間は、バーに寂しさを紛らわせるために来ている。だから、バーの客たちは時間がかかるにせよ、互いに打ち解けていく。しかし、ごく少数に、まったく他者との交流を絶ち、たった独りで酒を飲んでいる人物がある。こうした人物は、他者が話しかけるのに、冷たく突きかえす。おもしろいことに、論文の中では、こういう孤独者への説明をあきらめている。彼は「バーで独りで酒を飲む理由がよくわからない」とされ、行動科学的な注釈をはねつけたということである。

共感してもらえると思うが、たいていの映画では、バーの中で騒いでる連中や、だれかと話しているひとびとはMOB(脇役)扱いである。そうではなくて、ひとりで酒を飲んでいる怪しげな人物こそが重要人物であることが多いものだ。

この孤独な男性、これこそ自由なひとではないのか。つまり行動科学が存在を否定する「自由意志」をもった人物なのではないか、だから行動科学的な説明が不可能なのではないか、とぼくは考える。

行動科学では、統計的なイレギュラーとして弾かれる「非常識なひと」がいる。例えば、がらがらの図書館で、ひとりの学生が座っているとする。普通の人間であれば、そうした学生からかなり離れた席に座る。その学生のテリトリーを侵犯せず、自分のテリトリーも最大限得られるような席をとるのだ。しかしイレギュラーな人物の場合、驚くべきことにその学生の「真横」に座ることがある。

しかし、そんな人間は千人に一人くらいのものであり、彼は「イレギュラー」として黙殺される。まあ、真横に座る彼がそうであるかは別にして、こうした行動科学的に「ないもの」と見なされる人びとこそ自由意志を持っているのではないか、とぼくは考える。

つまり、行動科学とは自由意志をもたないひとびと(≒大衆)の研究であって、自由意志は人間に存在しないのではない。自由意志とは、極少数のイレギュラーな人間に存在するのである。イレギュラーというとかっこいい響きだが、実際の社会においては「変人」「危険人物」「困った子」的な扱いを受けることの方が多いだろう。もっといえば「精神異常者」、「犯罪者」ということになる。

「消えろ、イレギュラー!」でおなじみのゲームから。
イレギュラーが既存の社会に勝利し、社会が変革される、
というのが多くのゲームや映画のストーリーである。

行動科学では外部の環境と本人の性質でその行動が科学的に決定されるとした。つまり外部の環境と内的な素因によって、行動が決定されるのであって、環境と素因のあいだに「ある」とこれまで考えられていた「意志」というものが否定された。しかし、これでは人間は動物と変わらないことになる。

たしかに、大部分の人間は動物的なのかもしれない。鈴木大拙のいったように、「無知と官能の泥のなかにうごめく生ける屍の何と多いことか」ということが言えるだろう。というのも、自由意志を持つということは、おそらくバーでみんなと楽しく飲むことを不可能にすることだからだ。それはきっと寂しいことだろう。しかし、ぼくらは屍でも動物でもないはずだ。自由意志を持たねばならない。大衆からはなれた山頂と谷底は孤独で肌寒いが、それに耐えなければいけないということだろう。



生きている人間は、なにがあろうとも、頑として揺るがぬ必然に四方から圧迫されつづける。とはいえ、人間は思考する。
ゆえに、必然が押しつけてくる外的刺激に手もなく屈するか、みずから練りあげた必然の内的表象に自身を適合させるか、というふたつの選択肢を有する。ここにこそ隷従と自由の対立がある。(「自由と社会的抑圧」シモーヌ・ヴェイユ)

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