12.20.2014

信仰について

世界は光明と平和の領域なのに、人びとがそれを撹乱している。(トマス・トラハーン)

キリスト教も神道も、お上の都合の良いように改竄されるもののようだ。なにも某学会や某科学だけではない。

明治政府が国策として押しつけようとした神道は平田学派の神道で、自然宗教とは言えません。これを国家神道と呼びます。
日本の庶民の自然な宗教感情は自然への崇敬、アニミズムです。これをもう少し整理すれば、例への恐れと恵みへの感謝です。
霊には地霊と祖霊があり、祟る力をもつために祀って鎮め、味方になってもらおうという思いが、祠を建て、お札を貼るといった宗教儀礼になっているのです。
一方、恵みの神は太陽(御天道さん)や性(道祖さま)、出産(産土さま)や五穀の実りで、踊るとか祭るとか、より直接的な方法で感謝の気持ちを表します。このほか、厄払いの民間儀礼など含めれば、日本の庶民の自然な宗教感情は網羅できます。それ以外の巨大な装置は、どれもみな庶民の素朴な宗教感情を宗教的、政治的な意図から組織したもの。自然な慣習、習俗とはいえません。
たとえば「村の鎮守の神様の、きょうはめでたい村祭り」と歌われた鎮守さま、あれはいったい何でしょうか。鎮守とは中央権力が兵を送り、地方を治める機関のこと。鎮守府とも呼ばれる出張所のことです。村が平定され、鎮守されているときは、ここが年貢を徴収し、村が反乱を起こせばたちまち、権力の前線基地となる。これが鎮守社であり、鎮守の森なのです。だからそこが、村を見下ろす軍事的な要衝に位置しているのは当然です。
村祭りもおそらく、年貢徴収の儀式でしょう。この国の人びとは、不祝儀をも祝儀に換えて、苦しみを忘れようとする性向を持っています。支配者も、その性向を利用しました。
明治政府はこの鎮守を村の氏神とし、その住民を氏子とする支配制度を樹立しようとしました。これが氏子制度です。「お七夜」に「お宮参り」をし、子どもの名前を登録して御幣をもらう。このやり方は戸籍制度の一種で「氏子改」といいます。政府が強制したもので、民間の習俗でも伝統でもないのです。
鎮守のない村では、稲荷社を村ごとに合祀して、氏神としました。人びとの家の祖先霊を村の氏神と結びつけ、村の氏神を全国に配置した官幣大社に結びつけ、これを天皇家の氏神である伊勢神宮と結びました。こうして、天皇の祖先神である「天照皇大神」が庶民の祖先神の頂点に立ち、神々の神棚に「天照皇大神」が祀られることになるのです。
しかし、おいなりさんは祖先霊を祀る神様ではありません。たまたま一族が先祖代々祀ってきた神さまで、本来は地霊の力によって五穀豊穣を祈る、素朴な民間信仰でした。(「町内会総点検」佐藤文明) 

長くなった。ようは人びとの信仰心は幕府や天皇のような権力者のためにゆがめられてきたってこと。

ああ、愚かしい。ぼくは自分を恥ずかしく思う。どうしてぼくは信仰が正しいものだと思い続けてきたのだろう。宗教が善意と真理への希求から成りたっていると、子どもじみた希望を持っていたのか。

「権力者、為政者は本当のことを言わない」ということを原発事故で気づいたはずなのに。最近の増税で「庶民は生かさず殺さず」であることに気づいたはずなのに。

神社に拝むことは自然なことではない。たしかにぼくも神社に拝むときは、「I would prefer not to(そうしない方が好ましいのですが)」という気がしていた。

それよりも、森の中にたたずむ巨石や、大木に拝んだ方が正しいだろう。ぼくらはすべて、自然の恵みによって生きている。植物や動物たちの栄養によって、太陽の、海の、大地の恵みによって。だから、自然に感謝するのは極めて普通の感情だ。

十二天神社の神木

経験者の言葉を聴きたまえ。本よりも森から多くのことが学べるのだ。樹々や石から教えられることの方が、大博士の口から聞き知ることのできる知識よりも多い(ベルナール)

文化史的に多神教から一神教に進化したから、一神教の方が先進的で優れている、という傲慢な見方もあるが、これはダーウィニズムの乱用だ。結局、これも都合のよいスティグマでしかない。

仏教……。仏教の戒名もごめんこうむりたい。「そうしない方が」どころではない。暴利だ。坊主は本当にお金持ちだ。ベンツにロレックス。

キリスト教はよく知らないが、パスカルが「人間は怠惰の本性を持っている」と言っていて、ぼくの信仰とは相容れないものだと感じた。だいたい、万能の神さまがなぜ人間を不完全に造るのだろう?それにキリスト教は人を殺しすぎだ。信仰心を利用して殺人鬼をつくりだすような宗教は邪教である。

完全な確信を持っていることに身を捧げる人は決していない。明日もきっと太陽が昇ると熱狂的に騒ぎ立てる人はいないはずである。……政治的あるいは宗教的心情に、そしてまたそのほかの教義や目的に熱狂的に身を捧げるのは、耐えずそれらに疑問を抱いているからなのである。(ロバート M. パーシグ) 

信仰心とは、自然に湧きあがる感情である。聖書や仏典を読んで信仰心が芽生えたように感じることもあるが、実際はもとからあった漠然とした信仰心が、一点に凝集することによって自覚するのである。

信仰心とは、この世にあることの不思議である。脈打つ心臓をもっていることの不思議である。他者に愛を感じることの不思議である。言葉と言葉の間にある何ものかの不思議である。「不思議に対する憧れ、畏れ」、これが信仰心である。自己に対する抑圧、規制、不信、嫌悪は宗教的感情とはほど遠いと思う。

ぼくが死んだら、海に沈めてほしい。ぼくは海が好きだし、海を見ると血がたぎることを経験してきた。海を眺めて不快になったことはない。畏れと憧れの対象が海であった。

大地に触れると、大地の子は常に生気が甦える――超物質的な「知」を求めているときでさえも。 シュリー・オーロビンド

(最近の記事は引用とパクり画像ばかりだなあ……)



ザ・アニミズム・ミュージック。そういえば最近ベーシストの後輩が雅楽に嵌まっているそうだ。神道のブームが来ているのかな?
"A sacred terror in the noonday sun." - Stravinsky
真昼の太陽の神聖な恐怖……

太陽神!

ケツァルコアトル、ラー、スーリヤ、アポローン、そしてアマテラスオオミカミ。

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