12.21.2014

日本はなぜ○○禁止の看板が多いか

日本の警告看板や禁止立札はゴミより目障りだ ホルガー ・H・ハウプト

ぼくらが一歩外にでれば立て札や看板にでくわす。山ほどの看板だ。曰く、「○○禁止」「○○禁止」「○○禁止」。

ところでこれらの看板は「だれに見られること」を想定しているだろうか?このことを知っている人が少ないので書いておきたい。

少数の違反者に向けて書くのであれば、彼だけにわかるよう小さく警告すればよい。それなのにデカデカと看板を書くのは理由がある。違反者ではなく、犯罪を犯さない市民に見せるためなのである。あの看板は、ぼくら犯罪を犯さない市民の方を向いている。これを知っている人は少ない。

ある小学校。「廊下を走るな」という張り紙がある。Aくんはそれでも廊下を走った。楽しいから。それで、女生徒Bさんが言う。「走っちゃダメだよ。ここに書いてあるでしょ」と張り紙を指さす。これが権力の委譲。人間の使役。

その証拠に、Aくんがそれでも走り続けたらどうなるだろう?先生の注意は、もはや必要ないのだ。Aくんは迷惑者として弾劾され、村八分にされる。帰りの会でつるし上げられる。Aくんは、先生の注意が怖いのではない。周りに受けいれられなくなることが怖いのだ。

もちろん廊下を走ることは好ましくない。問題は、生徒が生徒を罰していること。つまり張り紙が間違っていても裁かれる恐れがあり、またその量刑が適切でない場合が多々。すなわち、生徒の力によって、生徒の私刑が行われる。

なぜこんなことが可能か?○○禁止は、異端者の行動をしばるためにあるというよりはむしろ、下々の民に権力を与えるためのシステムだからだ。市民的なるひとびとを警察の犬や首切り処刑人にする。市民のパワーバランスを不平等にして、秩序的(=抑圧的)な社会を作り上げる。

これは町内会と一緒。パワハラと一緒。



世の中はうまくいっていない。機能不全だ。

こんな社会おかしいよーって言うと中二病扱いされる。君は未成熟だ。幼稚だ。早く大人になりなさい、と。

システムの中に取り込まれることが大人になるということだ。システムの矛盾は、矛盾のまま受けいれる。でも、その矛盾はどこにいくのだろうか。ある種の虐待とか、ハラスメント、パチンコのようなものへいくのかな。

虐待されているから、虐待がしたくなる。暴力的なシステムのなかにあるから、暴力を振るいたくなる。この世が生まれや運で決まってしまっているから、パチンコがやりたくなる。

若者は老人に虐められているから、ロリコンが増える。

表と裏ってわけだ。人間の行動なんて、わかりやすい。とくにシステムのなかに組みこまれてしまったつるつる原子くんは、典型的な行動しかしない。作用反作用のゆらぎに組みこまれていて、犯罪ですら没個性的だ。だから、犯罪を見ると世相がわかる。

日本の犯罪は少ない。治安は良い、と言われている。でもその考えでは、北朝鮮も治安はいい。



Anyway今日は学校へ行く。もっと自由に文章が書きたいと思う。

読みやすい文章を書くことは、直截的に感情が乗る。だから読みやすい文章を書くときには、在る部分を秘匿して、包み隠さねばならない。人間は全裸でスクランブル交差点に立つことに耐えられない。

ひとは読みにくい文章を書くことで、かえって何でも打ちあけることができる。わかる人間にだけわかればよいという条件が、思考の鎖を外させる。難解な哲学はたぶん相当シャイな人間によって作られたのではないかな。ヘーゲルは一級の恥ずかしがり屋だ。

かつて、多くの智慧は秘伝だった。師は弟子が十分成長したときに、奥義を伝えた。バガヴァッド・ギーターなんて本当は、すべて口伝だったのだという。

このように、本当の智慧というものはこの世を這いつくばって探さなきゃわからないもんなのである。当然、教科書や大衆小説にあるわけではない。

道筋はできている。教科書にある人名が異常な熱をもっていると感じるときがある。恋愛にも似た感情。その人の本を借りる。興奮をもって読み進める。ところで、その中の一語が気になる。調べると、また次の人……。

本はネットワークしている。だから、感性で本を読むことが大切だ。本当の智慧はその先にある。

ぼくもまだ途上である。智慧はすばらしい。ぼくは智慧だけを愛する。

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