12.24.2014

世の中の仕組みがわかってきた。

世間ではいつもどうでもいいことが一番問題にされる、いったいどうでもいいことに無限の価値を付与するのが世間というものなのである。(「死に至る病」キェルケゴール)

今年になって、世の中の仕組みがわかってきた。というわけなので、ぼくにとって人生がだいぶ変わった年になった。

以前のぼくは、自分という存在が許せず、自分をさまざまな方向に向けて走らせたが、そんなことは必要なかった。自分という存在はここに完成しており、問題はつねに外部から与えられていた。だから他者や社会から与えられる抑圧を、あるいはかつて与えられた害悪を除いていくことがこれからの試みとなる。

こうした目覚めは、容易なものではなかった。長い時間が必要だったし、苦痛を伴った。自分に対する深い確信がなければ成せるものではない。だって、「自分以外のすべてが間違ってる」なんて普通思えないよ。正しい人間は全てアウトサイダーだったなんて。

心の底がなぜ芸術を渇望しているか不思議だったが、この理由もわかった。この世で芸術だけがスポーツではないからである。スポーツでは、鉄球を投げなければならなかったり、ボールを手で持ってはいけなかったり、不可解な制約がある。また明確な点数が存在し、順位付けがされる。オリンピックの表彰台は三角形で、現代社会の縮図である。

そのような不要なシステムがことごとく存在しないのが芸術という分野である。まあなかにはいくらで売れただの、賞をとったことを誇る芸術家もいるが。金と名誉に溺れたら芸術家は死ぬのだ。

おそらく、古来にはスポーツなんてものは存在しなかっただろう。芸術はあったに違いない。古代の人びとは、ヤリを遠くまで投げられたとして、「それが何の役に立つの?」と訝しがるに違いない。「獲物に当てなければ意味ないよ」

ヤリ投げ選手の弁明。「俺は偉いんだ」「だって金メダリストだぞ。世界一なんだ」

古代人は彼を理解できない。

これが現代に蔓延している神話であり、毒素である。

クリスマスが何だってんだ

キリスト教は害悪なのではないかと考えて、やっぱりこりゃあ害悪だなあ、という結論に至った。多くのひとが讃えるものに価値はないからである。本当に良いものは広まらない。だれか心ないひとが独占してしまう。証明終わり。以下補論。

キリストよりましなことを言ってみよう。「右の頬を打たれたら、反撃せよ。あるいは彼から離れよ」。左の頬を差し出すなんて、バカげているよ。常識的に考えて……。そんなことをする動物はいない。飼い主に隷従した犬くらいのものだ。キリスト教は奴隷的なロボットを作りだすものである。

仏教も国家神道もアウト!

信仰心は、たしかに芽生える。そこに存在する。

ぼくらは美しい女性を見たとき、大木や海を見たとき、他愛なくときめく。この純朴な感情のゆれ動きこそ信仰心である。天にまします神様や、神社に祀られている神様ではない。こころの奥底にきらめく不思議に当たったときに、信仰心は芽生える。

だからぼくが思うに、ただ自己にだけ向かわせるのでない宗教は、邪教である。孤独を許さない宗教は邪教である。孤独とは自己沈潜を許すものであり、その先には自由があるからだ。自由を許さない宗教があまりにも多すぎる。隣人愛とか日曜礼拝とかね。

ウパニシャッドは読むべきだろう。秘奥義であるところのインド哲学を読むべし。また神社ではなく、その脇の大木に耳を傾けよ。真理はそこにあるのだ。

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