12.26.2014

純質であるところの存在

存在は善悪の彼岸にある。

「善い人」でも驚くほど心に響かないひとがいるし、「悪い奴」とされているひとでも、不思議なほど魅力に溢れていることがある。

大企業の面接のときに感じたことは……。社長や幹部の人びとは、たしかにすごいのだけど、別に人間として優れているという感情は一切抱かなかった。「ああ、このひとたちはすごい俗物なんだな」と思った。俗物とはハリボテである。

たしかに年収1500万円とか、2000万円はもらっているだろう、社長ならその二、三倍は稼いでいる。だけど彼らは存在自体が強くはない。きっと死んでしまえば、すぐ忘れ去られてしまうだろう。彼らの遺族にしたって、彼の死を悼むよりは、そうそうに遺産相続の問題に移るに違いない。

金銭や地位をもとめる感情は、「自分がそれ自身では許されていない」と考えていることに由来する。ただ存在する、それだけでよいのに、彼らは存在のよりどころを善悪とか社会的地位に求めてしまう。これが現代社会の信仰であり、毒素である。

「俺は金持ちだ。だから存在していい」
「俺は善人だ。だから存在していい」

こういうひとは、かつてこう思っていた。

「俺はブサイクだ。だから存在してはいけない」
「俺は勉強ができない。だから存在してはいけない」
「俺は母に愛されていない。だから存在してはいけない」

退職した途端に鬱病にかかってしまう人がいる。彼は会社に魂を売った。会社もそれを喜んだ。そのあとは、何を支えに生きていけばよいのか。老年の彼に、いまさら考えを変えることはむずかしい。実存の危機が六十五歳にやってくる。

俗物的でないぼくの友人は、ある大手企業に内定を貰っていて、「入社したら社長を目指す」と息巻いている。しかし彼自身、社長になりたいなんてそこまで思ってなさそうだ。でも、就職したら上を目指さなければ先が見えない。一生平社員は、嫌だろう。でも、昇進を目指すことも、昇進したあとも、たぶんすごくめんどくさいだろう。でも、辞めてしまうのは、もったいないだろう。彼の生きた目は、空虚な目標はもうたくさんだ、と語っている。

もっとも、そう思っているのも学生のうちだけで、彼も会社に帰属意識を持ってしまうのかもしれない?背筋をぴんと伸ばした彼が、出世競争の怒濤の流れに飲み込まれ、潜在的な権力の監視におびえ、洗脳され、しだいに考えることを忘れ、あの俗物社長にぽーんと置換されるのかなあ、と思う。怖いなあ。

貧しさとは、智慧のないことを言う。

ブランド物の服ばかり着て、ユニクロが着れないことは貧しい。時価の鮨屋ばかりいって、回転寿司を楽しめないのは貧しい。だって、寿司が回ってるんだぜ!(ぼくはいつも回転寿司屋に行くと笑ってしまう。寿司が回っている!なんて光景だ!と)

差異を買う必要はないのだ。軽自動車の代わりにベンツ。原付の代わりに大型バイク。何が違うのか。鉄フレームの代わりにアルミフレームだろうと……樹脂の代わりにカーボンだろうと……それをもっている君に箔がつくわけではない。

たしかに、ベンツの似合うひとはいる。彼はぼくが原付を運転するように、ベンツを乗り回す。自然で、ほれぼれとしてしまう。ただ、似合わないひとの方が圧倒的に多い。こういうひとは、貧しい。ベンツの存在感に負けているのに、気づいていない。あるいは気づいていても、ロレックスや億ションを買うことで解決しようとする。これもまた貧しい。

善悪だとか、地位の前に、存在の強弱がある。それはスカラーのようなものだ。存在を磨こう。存在を磨けば、ベンツも、銀座の寿司も、勝手についてくる。なぜならベンツや銀座の寿司たちは、そういう人間を待ち望んでいるからだ。

気高く生きるということだ。今日も学校へ行く。

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