12.29.2014

未来と狂気について

現代の理性は、地球が平らだと考えていた中世期の理性と大して変わりがない、と私は思っている。理性を超越してしまうと、向こうの世界、つまり狂気の世界に落ち込んでしまうと思っている。そしてだれもがそれを非常に怖れている。この狂気に対する恐怖は、かつて人びとが抱いた地球の端から落ちてしまうという恐怖に勝るとも劣らない。(「禅とオートバイ修理技術」ロバート・パーシグ)

もう今年も終わりか。2014年、世の中はたいして変わらなかった。ぼく個人は、だいぶ変わった。

興味の関心が、ずいぶん広くなった。これまでは、有名作家とか、著名な哲学者のものを読むことが多かったが、案外、身の回りに優れたものがあることを知った。まあ主にブログだ。

人間は知ろうとしているものしか知ろうとしないものだよなあ。ほんと。今まで歴史とか、宗教とか、自分には無関係としか思っていなかったものが、自分の思想にcrucialに響いてくるわけで、そう考えると好奇心というものを絶やしてはいけないのだと思う。

あとは一種の霊感というか、「これ好き」と思ったらその感覚を逃さないことだと思う。
この機微はすぐ紛れて消えてしまう恐れがあるんですな。

ニーチェは「善悪」の奴隷道徳に対し、「良悪」の君主道徳を対置したけれども、ぼくとしてはそのさらに上に「好悪」を置きたい。善悪は理性が司る、良悪は本能が、好悪は存在そのもののもつ作用-反作用である。

いまはなんでも専門化であり、知の分断が図られている。高校二年の段階で、理系と文系が断絶されているからね。こうした専門化の過程は、科学の性格もあるけど、結局、総合知を得た人間があまりにも強力だから、為政者が封印しているってわけだよね。だって、国民がバカな方がコントローラブルでしょう。知識人や啓蒙者なんて危険でしかない。専門バカを量産した方が、いい駒になる。

ぼくもバリバリの理系人間だから、文系科目なんて虚学だ、曖昧mocoだ、なんて思ってたけども、心理学とか哲学勉強したら目から鱗だよ。これだよぼくが求めていたのは……!という気分だった。

学術は、深く突きつめることも大事だし、それが生活のためには必要だったりするんだけど、専門分野はそれぞれ確実にリンクしている。いろんな分野に手を出すことで、複雑な知識体系がつくられる。それこそ本当の活きた知識なんだよね。

だからぼくはどうも、大学教授というものが尊敬できなかった。当然、ものすごく勉強されている方々なのだけども、ほとんどの科学者は恐ろしく狭い分野の微少な前進に情熱を傾けているわけで、頭のいい人の持つ一種のパラノイア的な性格が、逆にうまいこと利用されちゃってるなあという風に思った。

もっともぼくが何でも知っているかというとそんなことはなく、今年もあまり本を読まなかったし、日常的にひとより勉強しているとはいえ、ほとんど生活のための勉強なのだけど。でもまあ、以下を読むと社会人よりマシなのかもしれない。

世の中で生きている人の多くは、どうやら人間として生きているということに対して要求する水準が極めて、極めて低い。それが若いころはまだ目立たない、学生であるということで擬似的に真理の探究に参画しているから。ところが、社会人になり、学ぶことから遠ざかると、人は人でいられなくなる。恐ろしいが、直視しなければならない。人と呼べる存在なんてほとんどいない、10人に一人もいないか、いつも特殊な環境で生活しているからか、そのことに気づかなかった。(「他者ということ」とある文学部生の日常



なんか汚くなった。縦軸は「開拓度」とでもしておくか。

よくわからない画像をつくってみたよ。これはぼくのような人間がどういう仕事をすれば良いかを書いている。

ほとんどの人が2015年地点のように、目の前の成果に向かって歩みを勧める。

ほとんどの企業は、50年後の自分の企業のことなんて考えない。そんなことしてたら株主に逃げられるから。だから、長くても5年とか、目標をたてて目の前の壁を掘り進める。いわゆる俗な人たちの仕事だ。政治もそう。

だけれども、ぼくは目の前の事象を軽く超越して、遠く未来の目標に向かってあらかじめ掘り進んでいかなければならない。

ただ、当然そんな試みはだれの目にもキチガイ沙汰に写るだろうし、評価されないだろう。でも、人類の前進にとってはきっと良いことなのだ。

それがぼくの役割というか、そういうものだと思っている。眼前に仕事はあるのであって、別にそれが苦痛だからどうとか、楽しいからどう、というものではない。

なんか気持ち悪いかもしれないけど、変な使命感が沸いちゃって、使命感というか、義務感というべきか、ひとつの仕事を実感しつつある。ぼくはおかしくなってしまったのかもしれないが、結局、意味のない狂気なんてないわけで、そういう狂気を認めさせることもぼくの仕事のひとつなわけだ。
未完成の仕事の光景は、笞が奴隷を追いやるのと同じ強烈さで、自由な人間を引き寄せる。(ヴェイユ)
これこれ。

たしかに上のマリオがいる位置の仕事は必要なんだよ。多くの先人たちがこなしてきた仕事でしょ。偉人の仕事はいつも早すぎる。だけれども、仕事しないで引きこもっている人間が、「ぼくは人類の全般的進歩のために仕事をしているんだ」と言ってもただの社会不適合者だよね。

そういう社会不適合者はフーコーが指摘したように近世以降、駆逐される傾向もあるけど、それが社会の恐ろしい停滞感を生んでると気づかないかなあ。狂気に不寛容な社会は、未来に不寛容な社会だよ。

柳田国男もこういっている。
昔の精神錯乱と今日の発狂との著しい相異は、実は本人に対する周囲の者の態度にある。我々の先祖たちは、むしろ怜悧にして且つ空想の豊かなる児童がときどき変になって、凡人の知らぬ世界を見てきてくれることを望んだのである。『山の人生』柳田国男
そう。狂気楽しいじゃん。現代芸術なんてまさに精神疾患アートだよ。草間彌生も、純然たるメンヘラだし。

ってなわけで、ぼくは未来のことを知らなければいけないわけ。そのためには、一種の霊感みたいなものに頼らざるを得ない。スピリチュアルとか、予言とか、守護霊とか、笑っちゃうようなタームがある、ぼくも非常に懐疑的ではあるのだけど、言ってしまえばこれこそ狂気の領域なんだよな。案外そういうところに答えがあるのかもしれない。

だらだら書いた。今日は大掃除をしなければいけない日なのだ。

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