12.08.2014

詩人は二十五歳で死ぬ

パスカルが人は大衆を離れ、離れたあと大衆に戻ると書いてあってなるほどそうだなあという気がしている。

つまり最初ひとは知識を得たときに、大衆を軽蔑し孤独に徹し傲慢な知識人になるけども、最後には大衆と同じ行動を取る、たとえば世人と同じようにAKBを追いかけ、酒を飲み幸福なマイホームを建てる。けれどもその行為の意味は世人とは違う。彼は知識人よりも知識が深い。そして大衆よりもずっと高次にある。

詩人は二十五歳で死ぬのだという。

T. S. エリオット曰く、
伝統はまず第一に、二十五歳をすぎても詩人たることをつづけたい人なら誰にでもまあ欠くべからざるものといってよい歴史的意識を含んでいる。(文芸批評論) 
伝統云々も非常に重要なことを書いているのだけど、ここでは年齢に着目する。 二十五歳という年である。クレッチマーの本にもこう書いてある。
どんな人でも、その若き日には、全体的な精神的態度において、新鮮さと興奮性とを多く保っており――二十五歳頃から、徐々に、あるいは急激に消え去ってしまう。その後にくるものは、機械的な職務の処理と、睡眠と、食事とであって、個性と呼ぶべきものはほんのわずかしか残らない。(天才の心理学/E. クレッチマー)
ひとは二十五歳までだれしも、知的興奮と新鮮さを保っており、二十五歳を過ぎて詩を書こうという人はわずかになる、言ってしまえば適応してしまうのだ。社会に。

実際的に詩人の寿命は短い。詩聖とうたわれるランボーでさえ、二十歳前に辞めてしまう。

考えてみると、学生運動していた人間が、しれっと公務員や大企業に就職している現象も納得がいく。彼は適応したのだ。この社会に。

適応することの喜びと悲しみとがある。(選ばれたことの恍惚と不安とがある一方で)

ひとは幸福を追求する生きものである、世間的にそういったことが言われている。だから、さっさとこの社会に適合してしまい……疑問を抱かず、目に覆いをして、摩擦なく生きていくことが幸福の近道であるという気がする。しかし、それだけが本当の幸福の道なのだろうか……。

起床、電車、会社や工場での四時間、食事、電車、四時間の仕事、食事、睡眠、同じリズムで流れてゆく月、火、水、木、金、土……。ところがある日、《なぜ》という問いが頭をもたげる。すると、驚きの色に染められたこの倦怠のなかですべてが始まる。《はじまる》これが重大なのだ。(シーシュポスの神話/カミュ)

苦痛と絶望と煩悶の中に、一筋の雷鳴のような至福があれば、そのひとはもう幸福ではないかと思う。そうでなければ、だれも座禅を組んだりはしない、滝に打たれまい、また、金にならない絵を描いたり、作曲をするのは、実際恐ろしいことである。

だからパスカルの言っていることもわかる、知者は、世間と同じように暮らしながら、何かを狙っているだろう。人生の本質をつかみうるような何かを。生半可な知識人が大声で宣伝する以上の大物を、たぶん狙っているだろう。本当の行為のひとは、静かに行くものだ。イタリアの諺にあるように、静かにいくひとは健やかにいく、健やかにいく人は遠くまでいく、ものだ。



最近どんな本を読んでいても、「ああそうだよね」となることが多い。これまでは「そうだったのか!」とか「ほんとにそうなの?」と、驚き信じられないことがあった。が、いまではフーコーを読んでも、シャンカラを読んでいても、「うんうんそれはそうだ」となる。つまり本を読んでもあたらしい事実を得ることは少なく、事実の確認にとどまっている。

ぼくは知識や教養といったものは、広範で多様なものを得ることだと思っていた。ところが、すべての知識は、突きつめるとひとつの球状になるようだ。だから物理学と哲学が親和性をもっているのだし、有機化学も、医学も、法学も、文学も、近しいものがある。ぼくのなかで、総合知というものが芽生えてきたのかもしれない。

考えてみると、学問とは人間から切り離せるものではない。学問というものは人間が造ったものである、だから人間を十分に知ることができれば、自ずと学問の理解も深まるのだ。人間を知らない人は、専門知識があっても「使えない」。

かつて、大学教育で教養課程をなくして専門知識だけつけさせたということがあった。これはすぐに辞めてしまった。こうして得られた狭く深い学識は社会に転用できず、いわゆる「専門バカ」を大量生産してしまったのだという。

あらゆる学問の根底にあることは、人間とはなんぞやというテーマである。おそらくこのテーマが、学問の駆動力になっている気がする。「うちはそんな高尚なことしていない」という研究室は多いし、たしかに縁遠い学問はあるのだが。たとえば青色LEDがどう人間学につながるのか、と言われると苦しい。

ともかく、ひとはだれしも自分のことを知らない。自分はたしかに存在しているのだが、その事実を解明できた人はだれひとりとしていない。これは峻厳な事実である。だからまあ、パスカル流に云えば、人間は考える葦である、ということでまとめて、今日は学校にいく。

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