12.09.2014

消費について

最近考えていることはつまらないことばかりで、引っ越したならばルンバを買おうかとか、洗濯機はドラム式だ、などといった次元のことばかり考えている。

これでは消費する豚にかわりないなあ、と自分でも思う。

ぼくはたぶんそこそこ稼ぐことになると思う。金を持つと今度は、消費欲が高まる。三万円のマットレスで快眠だった人が、二十万円のマットレスを買うようになる。そうして、もう安いマットレスには戻れなくなる。ところで、数十年前であれば、日本人は畳でせんべい布団だったわけである。

そして、せんべい布団には味がある。たぶん、リッターバイクよりも200ccバイクの方が味があるように。ただ、そういった点を見えなくするのが消費社会である。新しいものはよりよく、人類は進歩している、ずいぶん生活も楽になったものだ、便利な機能、なんでも自分の身の回りのことはやってくれる……。
もっと使わせろ
捨てさせろ
無駄使いさせろ
季節を忘れさせろ
贈り物をさせろ
組み合わせで買わせろ
きっかけを投じろ
流行遅れにさせろ
気安く買わせろ
混乱をつくり出せ (電通の戦略十訓より) 

現在ぼくは貯金数万円の貧民なのだが、これから金を持つ、というだけで、多大な引力を感じる。考えてみれば当然で、日本だけで数千万人の人が金を持っている人をターゲットにしている、消費させようと努力している、それを生業としている。高級車、時計、グルメ、マイホーム、保険、有機野菜、性産業、金さえ払えば女の子に耳かきさえしてもらえる……。まあなんでもいいのだが、金を持った途端にそれらが怒濤のように押し寄せてくる。これはほんとうにそうだ。

不思議なことに、ぼくらは金のないときにこれらを見えないようにしている。そこにはないものと認識している。二百万円の時計は存在しない。ところが、たとえば一千万円をぽんと渡されるとこうしたフィルタリングは瓦解する。あれも手に入るのだ、これも手に入るのだ……。この世は魅力的な商品だらけになる。

金をもった人がいくら努力しても、そうした引力にだれしもが勝てるわけではない。金を持つことは、堕落に繋がる。ぼくは今の生活に満足している。アマゾンで300円程度の古本を買い、服は二月に一着程度しか買わず、食器は実家から持ってきたもの、食事はほぼ自炊という生活でも満足しているのだ。それが、金を持つことになった途端、堕落してしまう。

部屋掃除はめんどうだ、ルンバに任せよう、洗濯物を干すのは大変だ、ドラム式の乾燥洗濯機にしよう、雨の日の通勤はたいへんだ、自動車を買おう、座り心地のいいアーロンチェアを買おう、ということになる。

  • 箒とちりとり(210円)⇒ルンバ(7万円)
  • 縦型洗濯機(3万円)⇒ドラム式洗濯機(15万円)
  • バイク(7万円)⇒自動車:はいぶりっどがいい(300万円)
  • パソコン(1万円)⇒ハイスペックPC(10万円)
  • ジェネリック・シェルチェア(1万円)⇒アーロンチェア(17万円)

金を持つということは恐ろしいことである。清貧はどこへ行ってしまったのか。本と音楽さえあれば良いのではなかったか。ぼくは本当の豊かさが見えなくなってしまいそうで、それが怖い。

そういえば、この前美容院に行ったのだが、会話の中で、ぼくはけっこう稼げそうだ、というと、美容師の方は嫌そうな顔をしていた。さすがに表面に出さないが、不機嫌になったのがわかった。しまった、と思った、美容師というのは、ふつう薄給である。

ぼくには悪意があるわけではなかった。金というものが、どれだけタブーになっているのかつかめなかったからだ。これまで金を持ったことはなかったから、性のタブーを知らない子どものように、あけすけに喋ってしまった。

だれしもが、自分の得る金が、自分を価値づけるものだと思っているが、これは異常なことだと感じる。年収二千万円のひとは、年収二百万のひとより偉いとされている。金によってひとの階級が決まるとされている。この思想は、めちゃくちゃだ。誤謬だ。

階級が悪いというのではない。ほんとうは、金以外の栄誉だとか、能力によって階級が決まるべきである、そして金はそういった階級にしたがって分配されれば良い。ところが今では何もかも逆転してしまって、金を持っている人が偉い、優れた能力を持っていても、人徳のある人でも、金がなければ人間的価値を否定される。なんという世の中か。

だれしも、フェラーリを見るとこう思ってしまう。俺にもあんな車を持つ金があればいいのに……。これが消費社会の実態だ。君だって、軽自動車を持っているじゃないか。エンジンが付いていて、タイヤが四個あるのだ。何が違うというのだろう。実際のところ、フェラーリと軽自動車の持つ差はわずかな差でしかない。人間の”空気感”がそれを大きくさせてしまっている。

フェラーリに変身03
フェラーリに抱く感情は、仮面を被ったひとに持つ感情と似ている。


世の中の空虚な価値観に振り回されていては、人生はあっという間に終わってしまう。自分だけの価値観を大切にしなくてはならない。自分だけの価値観とは、独善的なものではない。それはあらゆる人に本来通底するものである。真理への希求、愛とか善といったもの、これに目覚めねばならない。金に振り回されるのは、凡俗な人間だ。

金を稼ぎ、消費するという繰り返しは、輪廻のようである。永劫に彼はぐるぐる回るのだろう、本当の価値に気づくまでは。
大いなる魂たちのために、いまもなお自由な生活がひらかれている。まことに物を持つことの少ないものは、それだけ心を奪われることも少ない。ささやかな貧しさは讃えられるべきかな!(新しい偶像)

それにしてもルンバは欲しいものだ……。


2 件のコメント:

  1. はじめまして、モコと申します。
    数日前にこのブログを見つけて、読ませていただいています。
    こんなことを書くと、怪訝に思われるでしょうけれども、同じようなことをよく考えているので、ついコメントをしてしまいました。不快に思われたら、消してください。

    幸福についての記事も大変面白く読みました。私は数年前から「なぜ幸福にならなければならないの?」という疑問を持って生活しています。(これを人に言うとたいていぎょっとされるので、言わないようにしてますが…笑)
    ひとつ前の記事での「適合することの悲しさ」もよく感じていました。これはある種、人のもつ強さでもあるし、ある時はよく働いたりもするのだけれど、どうしても、自分をそれに任せきりにし、染まり切ることができず、私は、「それらしく」してあげることはできても、自分の中で摩擦を生んでしまうのです。だからこそ、年を重ねるにつれ、適合の程度を、勝手に覚えてしまったのかもしれません。
    理不尽さへの怒りや悲しみを忘れたら、私は自分を軽蔑するでしょう。

    消費についても、そうですね。お金や欲のもつあの誘惑はなんなのでしょうね。日頃惑わされまいと思いつつ、雨や雪の日、自動車があれば…ミニワンがほしい…などという思いがちらちらとあらわれないといったら嘘になります。
    学生の頃、表象文化論を学んでいた私は、「千と千尋の神隠し」を題材に、資本主義や消費・欲についてレポートを書いたことがあります。この記事を読んで思い出しました。

    「同じようなことを考えている」と書いてしまいましたが、おそらく、私より数段知識を持っていらっしゃると思うので、失礼にあたったらごめんなさい。

    新しい記事を楽しみにしています。どうか社会人になられても、書き続けてください。

    突然のコメント、失礼いたしました。
    それでは。

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  2. モコさん
    コメントありがとうございます。
    迷惑とか、不快とか思われる必要はまったくありません。
    あえて詳細な返信は控えますが、大変励みになりました。

    これからも書き続けていきたいと思います。
    ありがとうございました。

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