12.28.2014

GOGH vs JOMON

ぼくらはゴッホの絵を見たときに感動する。ゴッホの手紙を読んでも感動する。なぜだろう。それはゴッホがびっくりするぐらい純朴だからだ。ちょっと女の子にやさしくされたらぞっこん惚れこんで、就職したら上司にたてついて無職になって、まったくダメな奴だ。

彼はぼちぼちな作品を描いたが、それは画壇に受けいれられなかった。そうして、また描いた。今度はもっと大胆に。もっと素直に。それでも、人びとの心を動かすことはできなかった。彼は孤独のなかでどんどん深みに嵌まっていった。結局、彼の作品は死ぬまで評価されなかった。

彼の死の間際の作品は、おそろしく感情豊かな、もっと言えば恨み節で描かれている。

「カラスのいる麦畑」 1890年
これらは不穏な空の下の果てしない麦畑の広がりで、僕は気兼ねせず、極度の悲しみと孤独とを表現しようと努めた。
これは近いうちに君たちも見られると思う。僕はこれらを出来るだけ早く、パリの君たちのところへ持っていこうと思っているからだ。
それと言うのも、これらの絵は僕が言葉で語ることが出来ないもの、僕が田舎で目にする健康によいもの、活力を与えてくれるもの、そうしたものを君たちに語ってくれるだろう、ほぼそんな気がするからだ。
(「ファン・ゴッホの手紙」みすず書房)

なんかクソみたいなダメ本に、こういうことが書かれていた。ゴッホはセルフプロモーションに失敗した。一方でダリは、セルフプロモーションに成功した。みなさん、セルフプロモーションは大事ですよ、ダリを目指しましょう、と。

アホか!

ぼくは思うのだが、ゴッホは変人でも狂人でもなく、もともとはただの純粋なヒトである。しかし、この世の中で、純粋な人間なんてそうはいないのだ。だから少数の例外を除けば、だれも彼に共感できず、評価もできなかった。

彼は貧乏な画家が集まって楽しく絵を描いて過ごせる牧歌的なコミュニティーを作ろうと画策した。が、あっさりと失敗する。それほど純朴でぶきっちょな人だ。

彼を狂わせたのは、彼の責任ではない。彼を狂死させたのは、彼を受けいれなかった社会である。純粋なひとは、病んだ社会においては、その毒素を蓄積し、変貌する。そしてこの世を呪い、狂い、自死するのだ。

まとめ。ゴッホみたいな純粋なひとが、にこにこ笑って絵を描いて暮らせるような社会がぼくは理想的だと思います。(小学生か)



岡本太郎はゴッホに並々ならぬ影響を受けているのだけど、岡本太郎はその他、縄文土器の芸術性を発掘したひとでもある。

ぼくはゴッホと縄文土器はその純粋さで共通していると思う。

ただ、ゴッホの時代との違いは、彼の芸術がアカデミズムや社会通念からこてんぱんにやっつけられたのに対し、縄文土器は、たぶん当時たいへん好ましく受けいれられていたということだ。


「火焔土器」
なにかの反動ではなく、純粋な喜びで作られている芸術だと感じる。言いすぎかな。

この複雑怪奇な土器は、いろんなところから多数発見されている。縄文人はすっごくこの土器が好きだったんだろうと思うし、また、すっごく暇だったんだろうなとも思う。

縄文人は一日三時間しか働かなかったという。残りの時間、彼らは、食う寝るセックスか、祭事や芸術しかやることなかったんだろう。この時代、まだ政治はないし、戦争もない。経済もないし、農作もないのだが。なんていうか、良い時代だ。

ゴッホは縄文時代の日本に生まれるべきだったのだ。

とよくわからないことを書いて、今日も学校へ……。


以下雑記。

どうも何も書く気が起きない。自分のしてきたこと、これからしようということに確信がもてない。ぼくは人生をだれかのために生きていない。だから、ぼくがこれからどうすればよいのかということは、自分に尋ねる以外はない。だけれども、鏡のなかの自分にかじりついたところで、返事があるわけでもなし。

ぼくはこれからどう生きればよいのですか。

生き方に悩んで悩んで、あやふやに生命が消費されていっているのだ。いあまあ学業はそれなりにがんばってますよ。でも、学業なんてほんとうの生き方じゃないからね。社会に対する義務みたいなもので、生きていくための必要だから、情熱をそそぐところじゃない。

社交とか、家庭もそうでね。よくマックで、頭の悪そうなひとが、友達と盛り上がってぎゃぷぎゃぷ笑っている、興奮しすぎて手もばちばちと叩く、そういうひとがいるけども、彼らにとってはそれが最上の使命であり、最上の楽しみなのだろう。

ぼくらはこういうつまらない社会のために生きてるんじゃないんですよ。ぼくは自然だ。ぼくの肉体は自然である。もちろん他者も自然ですよ。でも、社会ってのは自然じゃない。本当じゃない。ぼくとある人がぶつかりあうとき、つまり、自然と自然がぶつかりあうときに緩衝してくれるものが社会。

でも、そんなことにマジになっちゃってどうするのさ。「どちらかといえばあった方がいいかもしれない」けど、「なければないで問題ない」ものに本気になってどうするのさ。それどころか「害悪そのもの」なときもあるけどね。

社会的なこと、これはもう、時代が強制するのだから、半分眠りながらこなしていくしかない。そうして、ひとり自分の部屋に帰ってきたら、そこから大いに自然に戻ろう。自由を謳歌しよう。楽しもう。

そう、人生の本質は、楽しむことにあるのだ。


昔の記事を読んでいたらこんな文言にあたった。

好機だ!こんな時代でよかった!と言える人間がどれだけいるか。その強さを持った人間が今どれくらいいるか。たいてい、ああすれば、こうなっていれば、なんてうじうじ言って、ありもしない空想で慰めるのだ。これが、歴史から逃げることなのだ。情けない。

なかなか、鋭いねえ。俺。

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