1.11.2015

とはいえ、人間は思考する。

この言葉が好きだ。

とはいえ、人間は思考する。

ここに、人間のすべてが凝縮されているのではないかと思う。人生は何かと壁がある。女に振られた。仕事でミスした。自動車事故を起こした。病気にかかった……。まあいろいろあるわけだが、こうした状況に陥ると、ひとは「どん詰まり」になる。

とはいえ、人間は思考する。これによって、次の一歩が踏み出せる。

数日前、あたまの中でふっとこの言葉が浮かんで、それからずっと唱えていた。すばらしい言葉だ。だれの言葉だったか?

それを最近やっと思いだした。シモーヌ・ヴェイユの「自由と社会的抑圧」の言葉だ。最近この本の引用がとても多い。
生きている人間は、なにがあろうとも、頑として揺るがぬ必然に四方から圧迫されつづける。とはいえ、人間は思考する。ゆえに、必然が押しつけてくる外的刺激に手もなく屈するか、みずから練りあげた必然の内的表象に自身を適合させるか、というふたつの選択肢を有する。ここにこそ隷従と自由の対立がある。 
けっこう話の核となる部分である。

なんていうことのないこの一文が、なぜぼくの潜在意識からぽっと出てきたのか。そう考えると、この言葉は意外と魅力に溢れていることに気づいた。

まず、「とはいえ」が良い。この逆接詞が凡庸な「しかし, だが, それでも, ところが」でもぼくの記憶に残らなかっただろう。「思考する」という言葉は類語が少ないが、これが「考える」になっていてもまたぼくを興ざめさせるだろう。

これはひとつに音の問題である。「kangaeru」と「siko-suru」であれば、後者の方が美しい。濁音とは濁った音であり、日本語では良い響きではない。肉と肉のすれ合う言葉である。もっとも、それが効果的にはたらくこともある。ニンンハシコウスル、この塩梅は絶妙である。

そうすると、ロダンの「考える人」は、ひどい訳ということになるが……。もし、「考える人」が「思考する人間」となると、また印象が違って見えないだろうか。
(ところで、この「考える人」は何ものなのかというと、ダンテの「神曲」をモチーフにしていて、地獄の門から地獄を眺めている人……というのがその実際のようである)


ところで、これは岩波文庫版なのだけど、翻訳者を見てみると「冨原眞弓」となっている。ふーん、女性だったのか。調べると、哲学科の教授であるようだ。

ヴェイユもまた珍しい女性哲学者である。女性の哲人に、女性の訳者。哲学書にしては、すごくレアな組み合わせなんじゃないだろうか。

ともあれ、女性というのは、言葉に対するニュアンスが別格に鋭い、ということを表題の語句から感じとった次第である。

最近、女性の書く文章のほうがはるかに男のそれよりよいと思うことが多い。ぼくが好んで読むブログがあるのだが、その著者は「美しいイラストを描くように文章を書く」のが良いと言っていて、そのとおりだと感じた。

考えてみると、日本語とは象形文字である。ということは、文章全体が絵である、ということもありうるのかもしれない。

余談になるが、欧米人は日本語を見ると絵にしか見えないようである。インドに行ったとき、ボランティアにきていたオーストリア人と仲良くなったのだが、彼女の名前をひらがなで書いてあげると、魔法使いをみるような目でぼくの手先を見つめている。あんまり嬉しがるのでそのメモはあげた。

たしかに日本語は特殊な言語であると思う。また、ぼくもまた日本語の使い手である以上、それを深く探求していこうと思う。

冨原眞弓女史とのもうひとつの接点。彼女はトーベ・ヤンソンのムーミンシリーズの翻訳者でもあるらしい。ぼくもムーミンは好きである。あいにくぼくの本棚にあるムーミン本は彼女の訳書ではなかったが……。なんだかシンパシーを感じる。


と以上、どうでもいいことを書いた。クオリティは低い。しかし、時間と体力がないのである。最近勉強漬けの日々で、余裕がない。一日十時間以上は勉強している。が、まあこうした生活も悪くない。けっきょく、勉強はひとりでやるもので……ひとりでやることは大好きだ。自由だからだ。バイトの接客業より、ぜんぜん楽に感じる。とはいっても、時間と体力はしっかり削られるので、こうしてクオリティの低い記事を書くのである。

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