1.15.2015

同情について

同情という感情も、人間を人間でなくする類のものであると思う。

なにか祥のあったひとであれば、ひとは近寄りたいと思う。不幸があったひとに対しては、近寄りたくない、と思う。それが自然である。

ある若者がマンモスを狩ってきたら、集落は総出で出むかえる。結婚したら、みんなで祝う。祥は分かち合えるからである。

葬式でもひとは集まるが、あれは不幸を閉じ込める必要のためだ。ある家で不幸があって、そのままにしていては、周辺に不幸が漏出する。葬式とは封印の儀式なのである。


友人の留年が決定したらしい。

彼とはけっこう長い付き合いなのだが、ぼくは自分でも驚くほど、慰めの言葉をかけるということをしなかった。反対に、ぼくは彼をないもののように扱った。できる限り、離れていたかった。

憐れみの言葉をかけたところで、どうにかなるものではない。それでは問題を解決できない。ぼくは彼の力になれるよう、できるだけのことをしたいが、憐れみ、同情が、なんだというのか。

ぼくはかれに実際的になにもしてやれない。だから、彼には近づきたくない。不幸が移されるだけである。

憐れみ、同情の世界では、彼の側にいて、慰める、ということが重要になるらしい。それは確かに彼の不幸を減衰させることができると思う。

しかし、できることといえば、不幸を分かち合うということで、分かち合うということは、自分にとって損になるということだ。これは自己犠牲だ。自己犠牲は欺瞞だ。

自己犠牲は欺瞞である。というのも、ひとは自己を他者に与えるということはできないからだ。人間はすべての動物と同じように、功利的である。だから、同情のあるところには、計画と、契約書がある。

アンパンマンは、たしかに自分の顔を他者に食わせている。これは優れた自己犠牲の精神だと言われるが、あれを見ているひとならだれもがわかるとおり、顔なんてポンポンすげかえられるのである。「新しい顔」は日々生産されているのである。アンパンマンの顔がひとつだけしかなかったら、ぜったいに食べさせない。これは断言できる!

同情はなにも生まない。困ったひとに何かしてやりたいと思う、これは自然の感情だ。しかし、慰める、という行為は、ことごとく空虚で、ぼくの肌に合わない。

人間はたびたび不幸になるが、不幸に押しつぶされるほど人間は弱くない。不幸は人間を強くする。人間に気づきをあたえる。同情とは、この優れた機会を奪うものである。

以上によって、ぼくは同情を断罪する。


同情する人間を私が非難するのは、ややもすると恥じらいの心、畏れの念、自他の間の隔たりに対する細やかな感情が彼らからは失われ、同情がたちまちにして愚衆臭いにおいを放ち、不作法との見境がつかなくなってしまうからであり、――また、同情の手が一個の偉大なる運命、傷手を負うた孤独、重い責務を背負っているという特権の中にまでさしのべられると、ときと場合によっては、かえってそれらを破壊してしまうことさえあるからに他ならない。(「この人をみよ」/ニーチェ)

書き抜き帳を見たら、今日書いたことは、だいたいニーチェの言ってることと同じだった。結局、読んだこと、学んだことが表出しているだけなのかな。自分だけの思想なんてないのかもしれない。

ニーチェの「この人をみよ」の原題は、「エクセ・ホモ」というラテン語であり、新約聖書のヨハネ福音書からとられた。ユダヤの太守ピラトが民衆の前で、いばらの冠のキリストを指さしていった言葉とされる。

このエクセ・ホモは有名な言葉なのか知らないが、岡本太郎の絵にも同じタイトルのものがある。

"Ecce homo" 1963 岡本太郎

もっとも、太郎はニーチェの影響を強く受けた人物であるから、ニーチェから取ったと考える方がいいかもしれない。

あの本は、開いて数秒で笑える。「なぜ私はかくも怜悧なのか」「なぜ私は良い本を書くのか」といった自画自賛が続く。でも、彼はほんとうに怜悧で良い本を書いたから、だれも文句が言えない。

彼を理解し賛同していた人間は、彼の生きている間には五人もいなかったという。ニーチェはほとんど評価されなくとも、自分のしたことの価値を知っていた。

ぼくはニーチェの影響を受けた人間が大好きだ。フーコー、バタイユ、オルテガ、ヘッセ、枚挙に暇がない。ニーチェという人間は何ものなんだろう。神のつかいか、宇宙人ではないのか。


余話。

ぼくのような人間が処世術を語るのもおこがましいが、何か不幸があったときは、それを決して口にしてはならない、と思う。不幸を晒すということは、人前で性器をさらすにひとしい行為だ。見苦しいし、ひとが離れるのである。

不幸な人間にはだれも近寄りたくない。

「私はかわいそうなの」とアピールする女がたまにいるが、あれなどは最悪だ。なまじ同情は善しとされる現代だから、彼女を慰めるやつがいて、永遠に治療されない。自分がバカなことを言っていると、気づくことがない。これは社会病理のひとつだろう。

0 件のコメント:

コメントを投稿