1.02.2015

困ったときの自己頼み

ひとびとは自らを保持することを知らなければならない。これが独立についてのもっとも峻烈な試練である。(「善悪の彼岸」)

ぼくが毎年やっている年越しの儀式があることは昨日書いた。うすぐらい部屋で鏡に向かい、「自分」に願をかけるのだ。別にだれに教わったことでもないが、実はこれは、意外と有効な手段じゃないかと思っている。

一般的には、神社で神頼みすると願いが叶うとされている。ぼくとしては、本当にそうなのか?と首をかしげざるをえない。

そもそも神社というものは、天皇を頂点とする国家神道を定着させるため、明治政府の国策によってあたふたと作られたものだ。つまりその構造として、支配と統治の概念がある。

支配と統治とは、ようは平民に力をもたせないことである。さすがにぼくたちは政府が「みんなが平和に楽しく暮らすため」の存在でないことには気づいたはずだ。その反対だ。生かさず殺さず、である(これが端的に表れたのがブラック企業)。どのような統治においても、市民の反乱ほど恐ろしいものはない。
主人は奴隷を恐れるからこそ、奴隷にとって恐るべき存在となる(「自由と社会的抑圧」)

そんな神社が、平民に神の助力なんて与えるだろうか。

「神さまにお願いすればいつか叶う」という曖昧な報酬体系が、ひとびとの力を奪う方向にはたらいている、とひねくれて考えることもできる。

たしかに、願ったあとに叶うことがある。良いことがあるかもしれない。偶然でもそういうことがあると、神さまのおかげだ、と思うようになる。こうなるとドツボだ。悪いことがあると、神なんていないんだな――とは思わなくなる。お願いが足りなかったのだ、という風に思う。

このように、パブロフの犬やギャンブル依存症のようにスイッチを押し続ける養分的なひとが生まれる。こうして本当の問題からは目がそらされる。

村人が飢えてるのに、厳しい税金のせいにしないで、自分の信仰が足りなかったんだ……って思ってくれたらこれほど都合のいいことはない。信仰とはだいたいこういうもんだ。だから、信仰心が世間的に善とされる。信仰心が美徳とされる。まさにニーチェの言った奴隷道徳だ。

じゃあ本当の問題ってなんだ?となる。

それは自己と環境である。だいたいある問題が解決できなかったとき、自分の能力が足りないか、あるいは環境的要因があった、と考えるのが当然だ。

話がながくなったが、結局行為の主体はどこまでも自分なんである。行為主体を神に委譲することは、間違っている。

そして、自分という存在は、それ自体で完全なんである。だって、君自身はすべてが完全に機能している。肝臓がなかったり、心臓が変拍子刻んでいる、ということは普通ない。完全な君は、為政者と等価である。真の意味で平等である。

だから、君には大抵のことができるということだ。ほんとうであれば、とっくに成功しているのだ。それができないということは、なにかしらの環境要因が君の才能の発露を抑制していることになる。だから、こうお願いすることが大事なのだ。

「自分よ、自由になってください」

自分さんにお願いすることは神頼みよりたぶんより確実だろう。行為の主体はどうしても自己なのだから。おそらくこの「自分頼み」を全国のひとが続けたら、日本はひっくり返る、と、それくらいの力はあるんじゃないかなーと勝手に思っている。

別にぼくは神を否定しているわけじゃない。が、自分を信じずに神を信じるというのは誤謬だ。自分の完全性に目覚めること、これが実存である。

マア安いビジネス書みたいで嫌な表現だが、潜在意識にはたらきかけるのだ。そうすれば夢は叶うだろう。たぶんね。

自らを自己を高めるべきである。自己を沈めてはならぬ。実に自己こそ自己の友である。自己こそ自己の敵である。自らを自己を克服した人にとって、自己は自己の友である。しかし自己を制していないものにとって、自己はまさに敵のように敵対する。(「バガヴァッドギーター」上村 勝彦訳)

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