1.21.2015

にやにや笑う怪物

変なところに立って

にやにや笑う怪物



愛を知ることはできない。愛はただ、信じることだけできる。

信じるとは、知ることではない。信じることと、知ることは反対である。信ずる者と知る者の対立は、裁判所とガリレオの間にあり、また、恋い焦がれる少女の胸中にあった。

愛を知ったときに、愛は消える。ゆえに、愛を知ることはできない。



ガリレオ。
ただし、本当に誠実なやりかたでデータをとったのかどうか、という点に関しては怪しい点があるらしい。つまり自分の説・仮説に合うようにデータをいじっていたらしいとブロードやウェイドによって指摘されている。つまり「自然科学の父」と呼ばれるような人がすでに、現代で言う「科学における不正行為」に相当するようなことを行っていたのであり、不正行為の問題が20世紀になってにわかに始まったかのような印象を持つのは適切ではなく、実は自然科学はつきつめればその父(開拓者)まで腐っているような、かなり根深い問題だとブロードやウェイドは指摘しているのである。(出典:W.ブロード, N.ウェイド『背信の科学者たち』講談社、2006)

科学なんてそんなもんだろう。嘘、ごまかし、ねつ造のはびこる世界。

でも、それが本当の姿だ。相互信頼と不干渉によって成りたつ科学なんて、ビジネスや宗教と変わらない。

信じるとは見えなくすること。



ある脳外科医の教授がこう言っていた。

「医学は科学だ。だから、科学に沿わないことは決してしてはならない」

科学が間違っていたらどうするのか?医師の経験が勝ることはないのか……と考えるが、「最大限正しいらしい」のが科学なのだろう。それは彼なりのリアリズムなのだと、勝手に納得した。他者の生命を担う人間の、ぎりぎりの判断。医師は孤独だ。

医学と哲学は、よく似ている。東洋医学、西洋医学があり、東洋哲学、西洋哲学がある。
人間のことは、決してわからない。哲学者にも、今のところわからないし、日々五臓六腑を相手にしている外科医にもわからない。「これはつまり、なんなのか」。

だから、東洋の見方perspectiveと、西洋の見方が残されている。

東洋医学は、西洋医学により、少しばかり解明されてきているようだ。しかし、それにしても、東洋医学は動じない。自分が正しいことを信じているかのようである。東洋医学は広い。西洋医学は狭い。どちらも、良いことだと思う。



最近の私は、よく笑い、よく社交を楽しむ。社交を楽しむとき、私は、他者と談笑しながら、いろいろなものをくすねとっている。ひとを楽しませると、隙ができる。そこから奪っていく。物質的な泥棒などしない。そんなことは、バカのすることだ。ぼくはもっと大事なものを奪っていく。

社交的な人間は功利的だ。(だれでもわかることだが)



自分のなかで、変化が起きている、と感じる。認識の再構築が必要なのだと思う。これまでのアカデミックな、頑強な柱によって打ち立てられた価値観は、転倒し、分解され、踊り回る、という段階にきている。

アカデミックな知識は、ぼくをある程度満足させてくれた。こいつらは、しばらく引きずり回っていたい。アカデミックな知識、それだけでは不十分だ。ゴツゴツした知識は、肌触りが悪い。添加して、研磨することが必要だ。

最近夢の世界を楽しんでいる。今朝、ぼくは大西洋で情報を得る夢を見た。この情報がなにかわからなかったが、ニュースを見ると、オランド仏大統領とオバマ米大統領が電話で会談していた。なるほど、あれをキャッチしていたのか、とびっくりしたのだが……しょせん夢の話なのだ、と戒める理性も、いくぶんかは存在している。

現実は表世界、夢は裏世界。表と裏の境界が薄くなってきているようだ。おそらく新しい時代は、このような変革でやってくるのだろう。

夢がまた市民権を得る。

そのような時代がやってくるのかもしれない。

統合失調症は夢に浸った人間。



酒を飲んだのです。

寝ます。


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