1.23.2015

不穏

最近いろいろなことがありすぎる。テロがあってデモがあって誘拐があって……。まだ二〇一五年になって一ヶ月経っていないということに驚く。

これが戦時中の感覚なのだろうか。のっぴきならない現実を伝える情報、あまりに強烈な情報が飛びこんでくる。いままでニュースがこんなに圧力を持っていることはなかった。

かえって日常は平穏なのだが、以前のようにニュースの話題を出すことがはばかられる。あまりにもぼくらの生活に近すぎるからだし、また、フランスのデモも身代金誘拐も、自然発生的というよりは作為的で、そこにどうしようもないわだかまりを感じる。演劇を見ている気分だ。

昨日はヘリが上空を飛んでいただけで、不穏な気持ちになった。

世界が大きく動こうとしているのだろう、と思う。そしてその中に間違いなく日本も入っている。

「東京でイスラム過激派によるテロが起きるようになる」ことを警戒している人がいる。たしかにそのようなことが起きることもあるだろう。

ただ、それよりも怖いのは、フランスのように官製暴動が起き、それによって大衆の同意を得たかのように、国が勝手に動いてしまうことである。というか、いつでも、国は勝手に動くのだが。

ぼくらにとっての脅威は、イスラム国のような仮想敵ではなく、明白に、自分たちの国である。



私事だが、というか、私事しか書かないブログなのだが、ぼくの精神は、二〇一五年の今になるまでに急激な成長をとげた。三年前に書いたクソみたいな記事を読むと、自分の精神がいかにひよこちゃんだったかわかる。ただ今日までに何かに急かされるように勉強し研鑽してきた。

この理由は、早死にが決定したからだと思っていた。ぼくは放射能で四十歳前に死ぬだろう、なぜなら酒にタバコに神経過敏、おまけにフライドポテトが大好きで、ガンになるリスク・ファクターは常人の何十倍もあるからである。こんなガン役満なぼくであるから、一生懸命勉強しなきゃ人生もったいない。

という風に考えていたが、いまの世紀末的なぴりぴりした世相を見ていると、二〇一五年、この年の動乱を生き抜くために知識を蓄えてきた、と思えるようになってきた。

なるほど、ぼくの精神の成熟はいま一皮剥けた段階にあり、どんとこい世紀末(=末法)、煮て焼いて食ってやろうという豪胆もなくはないのである。

本能とか、無意識とかは、ことに自分の生命が危うくなるようなときには、事前に察知するものであってバカにできない。猫だって死期を悟る。

いま、あるべくして自己があり、世界がある、という気がする。



どうせ死ぬ、早いか遅いかというだけで、できるならば、あまり痛くなくしてほしい。安楽死をするなら、モルヒネと青酸カリで楽に行けるだろうか。

バガヴァッド・ギーターを読んでいる。もう何度も読んだが、良い本である。読んでいると、死の恐怖が薄れていく。

人間に霊魂があるのかどうかわからないが、貪欲に生きようとする肉体と、知を愛する精神とは、どうも別個のような気がしている。

けっきょく、生きようとするのも、グルメやセックスを楽しむのも、ぼくの肉体の方である。肉体は、乗りものである。乗りものはガソリンやオイルを要求するが、ぼくらがガソリンを飲む必要はない。くるまが故障したら降りればよいのであって、それにしがみつく必要もない。

肉体滅びても、霊魂が残るのであれば、死は怖くないだろう。今日も学校へいく。

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