1.25.2015

ルーツ 謎めく縄文

自分という存在を知るためには、ぜひとも民族的なルーツをしる必要があると感じる。

民族主義というわけではないが、子が親に似るのは遺伝的に当然であるし、血族が似るのも同様で、そうであるなら、自分の民族が過去どのように生きてきたかを考えることは、自分自身を知ること、という風に考える。

極端にいえば、黒人が水泳をしようとしても無駄であるし、それならバネを活かしてバスケをした方がいい。おそらくこれと同じような「向き・不向き」が、精神においてもある、とぼくは考える。よりよく生きるためには、自分を知るためには、自分の血を知る必要がある。

精神は平等だ、というような行きすぎた平等主義が世の中にはびこっていて、だからすし詰めの教室で詰め込み教育が行われて、工業製品のような国民がいっちょうあがりなわけだけれども、これは間違っている。精神は平等ではない。女性の精神と、男性の精神は違う。そもそも、大きく家庭環境にも影響されるだろうし、程度はわからないが血によっても違うのだろう。

ぼくは霊魂という意味であれば、それぞれ平等にもっていると思う。ただ、精神というものを、無理に平等という風に誘導するのは危険である。だれしも同じ感受性や能力をもっているという幻想が、ときに人を傷つける。肉体がそれぞれ違うように、精神も違う。

ぼくは長らく自分のニート的な性格を矯正しようと思ったが、これは諦めた。精神を矯正しようなどと思うものではない。精神改造はファシズムである。

ともあれぼくは自分のルーツを知ろうとしている。


「列島創世記」というダメ本

それで、歴史の本を読んだ。「旧石器・縄文・弥生・古墳時代 列島創世記 (全集 日本の歴史 1)」という考古学の本で、石器時代から縄文、弥生、古墳時代を一冊の本にまとめたものなのだが、これがどうやらダメ本だったので、がっかりしている(安くなかったのだ)。

単純に、記述が不誠実である。安直な考察、誘導的な理論、説明が不十分、と、批判的に読むことを知らなければおかしな知識を身につけさせられてしまう。

筆者は「認知考古学」の分野では日本を代表する存在するらしい。認知考古学とは歴史を心理学的に解釈してゆくものとのことだが、この時点でぼくのあたまの中で警報が鳴る。精神医学は一定の臨床成績や生化学をベースにしているが、心理学とは未成熟な、一種の神話的な科学だからである。およそ心理学を武器に歴史を再構築など、できるはずがない……。

本著において、「最新の『心の科学』によれば、この部分はこう解釈できる」というような記述が何遍か繰り返される。ただ、その「心の科学」がどういったものなのかの説明は一切ない。いったいそれはフロイトを元にしているのか、行動心理学なのか、マズロー的な心理モデルなのか、そういった記述は一切ない。ただ「そうなる」と言われるのみで、おバカな読者であれば、「なるほど、科学は進歩しているなあ」と鵜呑みにしてしまうだろう。

こういったダメ本がなぜ生まれてしまったのか。気になったのでよくよく調べると、考古学という分野は、だいぶドロドロした世界らしい。

文献のない時代を考察していくから、どうしても主観が混じってしまうし、そこに政治的意図が加わると、もうぐちゃぐちゃ。もはや真実に到達することは難しくなる。

政治的といえば、本書のなかで、韓国の日本統治時代に、日本人が韓国の遺跡を発掘したことが記述されていた。そのときの表現が、「韓国の侵略統治時代に~」という風に書かれていて、違和感をもった。侵略統治という不思議な言葉はなんなのだろう。

「侵略統治時代」と検索をかけると、たしかに少しヒットするのだが、どうやらこれを行ったのは日本だけらしい。イギリスやフランスのアジア植民地化については、「侵略統治」などという言葉は使われない。

日本がアジア方面を統治すると、たとえ合法的な手続きを踏まえたうえでも、「侵略」という冠がつくのである。こういう中立性を欠いた史観を何というかといえば、自虐史観、である。学術的な立場をとるなら、安易にこういう言葉をもちいるべきではない。

あとは単純に、文章がダメだ。てきとーに書いた文章というのは、本当に読むのがつらい。内容もてきとーとなれば、300頁も読んだ自分を褒めてあげたくなる。

よく売れている本のようである。アマゾンでの評価は良いし、サントリー学術賞というよくわからない賞を受賞した本だが、だからといって安心できるものではないのだな。リテラシーを身につけなくては。

本著の詳しい批判は、以下が参考になる。
松木武彦著『列島創世記』を読む -新しい手法・技術は正しいのか?-
下手な小説のような松木武彦著「列島創世記」を読む。


縄文人とはなにものなのか

というわけで、どうやら考古学という分野は信用ならない学説がはびこっているのが実際であることを知った。

火焔土器

最近は長浜浩明の「日本人ルーツの謎を解く」という本が話題になっているらしい。長浜は東工大出身の建築家であり、歴史専門家ではない。しかし、徹底的にバイアスを取りのぞき、これまでの旧態依然とした癒着体質の学会を切る本として有名なのだとか。

ぼくはまだ読んだことはないが、アマゾンの書評によると、
縄文時代は、一万数千年前日本列島が大陸から切り離された時から始まった。
歴史的事実、エポックの列挙。
.群馬県岩宿遺跡で磨製石斧発見。約30000年前。
.青森県大平山元'T遺跡から土器出土。約16000年前。
.鳥取県板屋'V遺跡から稲作の痕跡見つかる。約9500年前。
.北海道垣の島B遺跡で世界最古の漆器出土。約9000年前。
.青森県風張遺跡で米粒見つかる。約3000年前。
.佐賀県唐津市菜畑遺跡で灌漑施設を伴う水田遺構出土。約2600年前。
要するに稲作起源は、弥生時代でなく縄文人も栽培していた。狩猟採集民ではなく高度の文化を持っていた。
そして、弥生と連続に推移して断続していないということである。
渡来人がやってき来たというのは、単なる予断、推測であり物的証拠は何もない。
事実は、その逆だったのである。著者は従来の仮説を検証してその中でY染色体及び最近の言語学の成果について評価している。

とある。稲作が大陸から伝来された、という事実は誤謬のようである。ちょっと、これにはびっくりした。教科書的な歴史はなんだったのか……。

浅学なぼくのあたまのなかでは、こうした歴史が築き上げられていた。未開的な縄文人が、狩猟をしながら生活している。朝鮮半島から、九州北部に、弥生人たちが渡来する。そして武具や稲作などの高次の文明を伝え、繁栄し、やがて日本全土に広まっていく……。

ってこれ違うのか。上の「列島創世記」でも、昔読んだ教科書にも、九州に渡来人がやってきたことは書かれていたと思うが。実は縄文人と弥生人という区別はなく、縄文人がもともと高度の文明をもっていた?そして、生活習慣の変化により、弥生人的な骨格になっていった?(本当か?遺伝子学的な調査はなんだったのか)

衝撃的な事実の連続で、混乱してしまう。何を信じればよいのやら。

ますます不思議だ、縄文人。自分のルーツを知るという試みは、思ったよりも険しい道のりであるらしい。

一般的なダメ~な縄文人像。(小樽市総合博物館)


実際には、女性はきらびやかな装飾を施された
服装・装飾具をまとっていたと考えられている。





現代的な解釈に基づく縄文人女性の再現。おしゃれさん。
(国立科学博物館)

Our kids wearing Jomon-era garb at the recreated prehistoric village
長野の縄文遺跡で着ることのできる衣装。
史実的に正しいのかはわからない。

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