1.26.2015

「どうでもいい」人質事件

学校へはいったものの、またひとぎらいの発作が出てしまい、今日は休むことにした。

大学生という存在が、いよいよ肌に合わなくなったらしい。どいつもこいつも、バカみたいに見える。もっとも、昔の自分もバカな学生だったのだが(今もか?)、だからといって不快なものは不快だ。

駐輪場でバイクにエンジンをかけていると、うすのろの警備員がじっとこちらを見ている。腹が立つので、じっと見返してやったら、目をそらした。警備員とは何様なのか。何をもって衆人を監視するのか。もちろんそれは仕事だから、なのだろうけど。たまに自転車やバイクにいたずらされるのと、気持ちの悪いおっさんが日がな一日立っているのとどちらが良いだろうか、とはだれも考えない。

不要だ。この世は不要なもので溢れかえっている。

大学の友人は進学することになりこの大学にあと四年も過ごすのだという。かわいそうだと思う。もうこの街も、大学も、学生も、警備員も、うんざりだ。ぼくの肌に合わない。中身のないものに体裁を整えて魅力的に見せているのは商品だけでなく人間たちもだ。価値のあるものがない。

離れられないということ

四月から環境ががらりと変わってド田舎に行くことを考えると気分がいい。しかし、ド田舎だろうと、人間は腐っているだろうし、生活は辛いのだろうと思う。もうこのへんのことは、あきらめた。

他者との距離はずっと大きくなるだろう。それは物理的な意味でだ。隣家まで遠い、というだけで、ぼくの血圧は下がっていく。その点はよい。しかし田舎の方が人間関係は煩わしい、とよくいわれている。

物理的に遠くなれば、精神的に近くなるもののようだ。東京は反対で、精神的に遠くなるが、物理的に近くなる。新宿駅へ行ってみよ。朝八時の中央線に乗ってみよ。肉体の近さと心の隔絶を如実にかんじることができると思う。

けっきょく、人間は人間から離れられない。田舎だろうと都会だろうと変わらない。それが社会のシステムだ。

権力は、必ず、他者を縛りつけ、離れられなくする。「離れられなくする」という言葉が、さいきんひどく重要のようにおもう。ひとがある個人、組織や社会から離れられないとき、そこに権力が発現している。



「どうでもいい」人質事件

たとえ他者から自由になったところで、ぼくは日本人であることを辞められない。イスラム国で日本人が処刑された。こんなことは、正直いって、どうでもいいことだ。人なんてそこら中で死んでいるし、殺人事件もめずらしくはない。

しかし、ぼくが日本人であるというだけで、こうしたニュースに関心が行ってしまう。それは、ぼくが国家に守られているからであり、それだけでなく、国家がぼくの生殺与奪を掌握しているからであり、ぼくの精神は、首輪をつけられているからであり、こうしたニュースから離れることができない。

日本の行く末なんて、死ぬほどどうでもいい。ぼくはぼくの人生しか興味がない。そうであるのがすべての人間の自然的感情であるのに、教育を通じて、メディアを通じて国家が介入してきて、コントロールしようとする。国と国民の「絆」、つまり家畜を逃れられなくする綱は、かたく結ばれている。

「クソコラグランプリ」は痛快な芸術だ。
どうでもいいものは、茶化して遊ぶしかないのだ。

日本が戦争するとする。イスラム国程度であれば、アメリカや日本の軍産が儲かって、自衛隊員が殺されて終わるだろう。それだけで済むならまだましだろうが、ほんとうにそれだけで済むのか、という気もする。

仮に、全面戦争となったとしたらどうだろう。たとえば日英米vs中露というようなモデル。ぼくらの生活は破壊されるだろう。「わだつみの声」の学徒兵たちのように、本を読むことができないことが苦痛で、新聞の少しの活字に慰められる、という生活になるのかもしれない。それならまだいいが、核ミサイルで一度に蒸発してしまうということもあるだろう。

国家という存在が邪魔くさい。

最近の政治の動きを見ていると、ほんとうに国家が邪魔くさいと思う、ぼくの生活に緩衝しないでどこか遠くでやってくれ、と思う。

安部ちゃんがヒトラーみたいな悪者にされているけれどそれは近視眼的だ。本当に悪い人間は表にでてこない。

棄民政策なんていつの時代も行われていただろうし、支配者側としても、国民一人の生命なんて死ぬほどどうでもいいのだろうけど、ここまであからさまに人命をコマのように使うことは最近までなかったと思う。今までも人命はコマだったのだが、それは巧妙に隠されていた。


パリのクソコラ官製デモもそうだけど、世界的に仕事が雑になってきて、なにか焦っているようにも感じる。

昨日この会見を見ていた。おもしろいので、ラジオ代わりに聞いてもいい。



あの人質たちだって、公安の邪魔がはいらなければ救えたのだ。ということは、人質が救われては、国にとって都合が悪いってわけだ。陰謀論ではないが、いまのところ全部シナリオ通りのように感じる。トントントン、と気持ちよくステップを踏んでいる。

上のコラージュでは日本人が武器を手にして、イスラム国が人質にとられているが、案外これが真実を示しているのではないか、と思う。

ところで、さいきん中田考が超重要人物になっていて笑った。あのひとは、個人的には誠実な神学者だと思っている。もっとも一筋縄でいかない怪人物であることはまちがいないが。


侵略戦争だったのか

昨日、ある考古学の書籍に、韓国が「侵略統治」されていたと書かれていたことに言及したのだけども、そのあとにニュースを見るとちょうど関連するような記事がふたつあった。

ひとつは安部ちゃんが韓国とお話しする戦後七〇年の「安部談話」において「侵略」という言葉を使うのかどうか、というニュースで、もうひとつは大阪の近代博物館で「侵略」という言葉が消えた、というニュースだった。

これらのことについて語る前に、ぼくは自分の思考したことが、翌日にはニュースになっていたことに大変驚いた、と言っておきたい。

ぼくは書籍を読んで、日本ははたして「侵略」したのか?ということを考えた。書籍は00年代に書かれたものだし、ぼくはテレビを見ない。しかしそのあとにスマホでニュースを見ると、日本の「侵略」がテーマとなる記事がふたつあった。

まあ偶然なのだろうが、ほんとうに全て偶然なのだろうか。ぼくに変な嗅覚が身についてしまったのかもしれない。まあ……たまたまだろう。偶然偶然。

というわけで、安部ちゃんは「侵略」という表現をいいかげん辞めたいようで、民主党のおっさんがそれを批判している。だが大阪の博物館では市議会員の反対を受け、すでに「侵略」の記述が消えた。

日本の二大都市、東京、大阪で、「侵略」という言葉が消えようとしている、ということはひとつの大きい動きだと思う。

国家として過去の戦争を「侵略だった」と認めているという事態は、じっさい異常である。それを言ったらほとんどの戦争は侵略になるからだ。だから、国家として「侵略戦争をしました」と認めている国は、全世界でドイツと日本だけで、何百年もアジア諸国を植民地化して搾取していたイギリスなどは一言も謝罪なんてしない。

そもそも韓国の統治は戦争がなかったし、国際会議では合法的統治だったという結論がでている。「ジャパンマネーで偏った結論がでている」という指摘もあるかもしれないが、韓国が主導して、歴史を見直そうとする「韓国併合再検討国際会議」というものが開かれたけれども、それでも「違法だった」というコンセンサスを得ることはできなかった。だからこれはもう、中立的視点では「侵略統治」とは言いがたい。

ただ、学問的な領域である歴史学と政治は別物だ。歴史は学問である以上中立的でなければならず、あらゆる利害と無縁であるべきだ。だから先の書籍において「侵略統治」という言葉が使われていたことをぼくは批判した。

しかし、政治においては「中立性」「真実」なんてなんの意味もない。安部ちゃんが「侵略」というキーワードを除くということには、必ずしも賛成できない。



神学界の怪物が中田考ならば政界の怪物である小沢一郎は安部談話の件についてこう語っていた。

NHK島田 解説委員 ; 今年は戦後70年の節目の年ですね。で,安倍総理も総理大臣談話として,今の時代についてですね,新たなコメントを出すという構えのようなんですけれども,小沢さんは,その総理大臣談話,新しい70年のもの,どのようにあるべきとお考えですか。
小沢一郎 代表 ;  僕はね,やっぱり,はっきりと歴史の事実は事実として認めると。 その上に立っての将来展望ということであるべきで。
 安倍さんも,もう少しね,自分の心の中のことを素直に,正直に話しをしないと,いけないんじゃないかなと。
 今さっき言った集団的自衛権のことであれ何であれもう,言葉で誤魔化して何とか言い訳しよういう,そういうやり方は良くない。
 一強多弱と呼ばれるぐらいね,議席あるんですから。もっと本当にこう思うというんなら,自信持って,はっきりした明確な言動を取るべきだ。
 それがトップ・リーダーの役割じゃないかと思いますね。
NHK島田 解説委員 ; 村山総理の時からの 「痛切なお詫び」 といった文言の踏襲,これは必ずしも求めないんですか。
小沢一郎 代表
 いや。ですからそれは,安倍さん自身の考え方ですが。
 私は,歴史の事実は事実としてはっきりと認め,お詫びするところは,するべし。 その上でのきちんとした友好関係・協力関係ということであるべきだと思いますね。<毅然として厳しい表情で>(小沢一郎代表 生活の党と山本太郎となかまたち NHK日曜討論2015/01/25:下線は引用者)


これ、必ずしも「侵略」という単語を外すことを批判しているようにも見えない。むしろ反対ではないのか?さっき言ったように、事実としては韓国統治は合法だったのだから、安部ちゃんがこの文章を読んだら、「ざわちんのお墨付きだ」と喜ぶことだろう。

政治家は「自分の心の中のことを素直に,正直に話」すことなんてできないことは、ざわちんも同じようで。二回も同じことを言ったということは、これが用意してきた言葉であり、<毅然として厳しい表情>になったのは、余計な質問をしてきた解説員にイラついたからだろう。

朝日新聞の従軍慰安婦記事について、「じゅうぶんな裏付けを欠き」「日本国民の名誉を傷つけた」という理由で学者をはじめとする8700人が損害賠償を求める集団訴訟したとのこと。これもタイミングの良すぎるニュースだと思う。それにしても8700人とはあまりに多い。

慰安婦についても微妙な問題だがやはり中立的視点に立つと韓国側によってかなり誇張されているのが実際だろう。

韓国はねつ造や誇張を武器に政治利用してきたがこんどは日本が事実を武器に反撃してきたわけでこれではひとたまりもない。しかし韓国は国をあげて反日教育を施しておりその怨恨は根深く、理性的な対話で取りのぞけるものではない。日韓関係は今後冬の時代がくるだろうと思う。




今日はだらだら書いた。最近の政治は気持ちが悪いが、いつだって政治は気持ち悪かった。さいきんはオブラートに包む手間をはぶいているだけである。

ある土地に囲いをして、『これはおれのものだ』と最初におもいつき、それを信じてしまうほど単純な人びとを見つけた人こそ、政治社会の真の創立者であった(「人間不平等起源論」ルソー)


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