1.31.2015

ニート礼賛

最近の自分の記事はずいぶん甘ちゃんだなあと思う。おそらく政治が公正だったことなど過去においてはまれだし、マスメディアが演劇になるのはゲッペルスの時代から変わらないのだろう。

「報道」とはルポタージュ・フォトの訳語だが、なぜ道という言葉がつくかというと、言葉によって導く、という意味があるからだ。報道によるイデオロギー形成は甚大であり、当時から経済的・党派的宣伝になることが知られていた。だからプロパガンダや虚偽広告とは切っても切り離せない関係にあるのだ。報道とはそもそもが畜群を導くものである。

政治は中立的であってはならない、政治においては真実など何も価値もない、と自分で言っておきながら、政治がさてもぞもぞと不愉快な動きをしだすと、「こいつらは何をやっているのかわからない!オソロシイ!」と悲鳴をあげだす自分が情けない。

というのもぼくにはある種のイデオロギーが作られていたのであり、マスメディアは三権を監視する第四の権力であり、政治家は民主主義によって選ばれた人民の代表であるという牧歌的なイデアを、この年まで維持してきたのだ。

もともとぼくは政治という世界が大嫌いだった。おかげでお花畑を脳内に描いていたのだが、今となっては知れば知るほど虚偽だらけ、失望しかない。おそらく、国民が政治に関心を持たないのは関心を持つとアラだらけだからだろう。国民の政治的無能化が行われているのもそれが都合がいいからだ。

もはや新しい前提に立たねばならないということだ。つまり政治は虚偽、マスコミは演劇、人民は畜群。支配する人される人。「そうなのではないか」ではなく「そうなのだ」と思ってしまわなければ……いつまでもうじうじと希望を持ってはいけないのだ。

私の見るところ、いったん小事に関心を向ける習慣が身につくと、精神は永久に汚れてしまい、その結果、われわれのあらゆる思想は小事の色に染まることになる。われわれの知性そのものが、いわばマカダム工法で舗装される――つまり、知性の基盤が粉々に砕かれ、その上を旅の車が転がってゆく――ことになるわけだ。(「市民の反抗」ソロー)

結局、政治だのマスメディアだのは、バカの集まりである。本質的にあいいれない集団なのだから、そんな連中のことを考えるのは時間の無駄だ。アホの連中に振りまわされるほど人生に余裕はない。

ぼくは本を読みたい。本を読んで、思想を身につけたい。知識を充実させ、豊穣な魂をもちたい。音楽を聴き、楽器をより鍛錬し、魂の息吹を表現したい。個として独立したい。個として独立した人間には、政治も、マスコミもない。個人は組織より強い。個人はつねに集団を凌駕する。

であるから、日常の些末なこと、バカが戦争を起こしたがっているとか、バカのせいで市民が死にかけているとか、気にかけてはならないのだ。

ぼくの知人には優れて霊感高くまた知性にあふれた人間がいるのだが、彼は首切り画像など少しも関心がないらしい。まあ平常運転ということだろう。いまさらになって喚くぼくは恥ずかしい人間なのである、ふつうの人間であれば二十歳くらいにはもう悟っていることなのだろう。

知の豊穣ということを考える。

昨日は雪が降ったのでわざわざ歩いて床屋へいった。雪を踏みしめ白い息を吐きながら歩いているとそれだけで自分が人生の勝者になった気がする。幸福はこうした日常と日常の間にあるのだろう。

床屋へいって、人生相談をしてきた。つまりぼくは労働に向いていないので、この先の人生が不安だ、ということだ。床屋のお兄さんは大笑いした。

不思議なもので、「ぼくは有能だからバリバリ仕事がしたいんです」といういわゆる意識高い系人間は、嫌悪感を催すが、「ぼくは無能だから仕事したくないんです」という人間には、好意が沸く。このときの感情は不思議である。

単なる自虐ネタに対する好意だけでなく、ある種の尊敬の念をももってしまう。労働に向いていない、とはけっこうcrucialな言葉である。

つまり、人間が生きていくためには必ず必要な「労働」、社会の一員として認められるために18歳や22歳までに整えておかねばならない「社会適合」を持っていないと宣言すること、社会不適合であり、人生において損害と不幸しかないことを認めるということはなかなかできることではない。自分は社会的な脱落者であり、それだけに世界を外から見る視点を持っている、イデオロギーを倒壊させるだけの力を持っている、ようなニュアンスがある。

つまり彼は世界の外に立っており、その意味では異邦人であり、永遠なのである(また勢いで意味のわからないことを書いている)。

世間的には労働において無力であることは、恥ずべきことである、それだけで非国民的な烙印を押されるものである、「働くことのできない」ニートはこれまでメディアを通じてさんざんバカにされ続けてきた。

しかし思うのだが、現代社会において労働とはlaborであってworkではない。日本の労働環境はおそらくOECD中で下から一、二位を争うだろう(たぶん韓国と)。つまり「やりがい」なんて詐欺でしかなく、生活における重荷でしかなく、サラリーマンは家族や生活を守るために粉骨砕身はたらくしかないのだ。

その意味では最終的に鬱病や重篤疾患でドクターストップがかかるような「労働適合者」たちは、かならずしも勝ち組ではない。社会適合者=リア充が勝ち組で、不適合者=非リアが負け組という図式、これもイデオロギーである。

というのも、働かない人間は脅威なのである。uncontrollableな人民なのである。さんざん義務教育の過程において、「社会の一員として活躍しよう!」と洗脳してきたにもかかわらず、それが「無効」だったということは、単なる落伍者を意味するのではなく、ある意味では「強者」であり、「叛逆者」なのである。

だからぼくらはニートを見ると蔑み、彼らは弱い人間なんだ、と思うかもしれないが、ほんとうのところでは、まじめに働いて順調に生きている人びとこそ「意志の弱い」畜群であり、「働いたら負けだと思っている」ニートたちの方こそ、強靱な精神をもっており、真理に近しいということもありうるのである。

上述したようなイデオロギーがはびこっているので、たいていのニートたちは自分は弱い人間なんだ、自分は間違った人間なんだ、と思っている。ここにイデオロギーが勝利する。強固なイデオロギーに支配されてしまったニートたちは、しまいには精神を病んだり自殺してしまう。

ニートたちは「病気」であるとされ、抗うつ剤や抗不安剤を飲まされ、カウンセリングを受けさせ再教育を施し、まっさらな社会適合者に矯正される。しかしこれでいいのか、とはだれも思わない。

ぼくはニートを礼賛する。現代社会において、彼らこそ人間だからだ。彼らこそ間違った人間像にノンをつきつける人間だからだ。そうして、イデオロギーを憎む。画一化した価値観を憎む。

「ある種の精神にとっては一粒の小さな狂気のほうが、わずかな貴族の血にまさるだろう。半狂人がいなくなったあかつきには文明社会は滅びるであろう。溢れる知恵によってではなく、溢れる凡庸さによってである。これは掛け値なしに断言できる」
キュレールにとって、天才と狂気は、完成した文明と、媒介物の増殖が創り出したものである。罰を受けずにはおれないのだ。未開文明に天才はいないが、狂気もない。キュレールにとって天才と狂気は「歴史の操作手(オペレーター)」である。(創造と狂気/F.グロ)

1 件のコメント:

  1. 「ニート礼賛」で検索して見つけました。名文です。まったくその通りです。日本の希望はニートの増加です。雇用のために労働を作りだすなど経済システムの大欠陥です。また、いろいろと読ませていただきます。よろしくお願いします。

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