1.22.2015

ひとの精神はよくカエルに似る

価値観の転換。

アカデミズムの破壊。ということは、まじめにコツコツがんばって何かを築き上げる、というロールモデルの撤廃である。40年間満員電車に揺られてちんちくりんなマイホームを築き上げる……「クソまじめ」なものは、だれが見ても吐き気を催す。人間的に見えて、その実ぞっとするほど非人間的だからである。

きれいな花を描きましょう、男女の恋愛を描きましょう、死の別れを描きましょう、というパターニズムの地獄から脱出するのである。

芸術とは楽しいものであって、たしかに、数々の文献が芸術家の不幸や精神異常を指摘しているが、それでも彼らの人生は楽しかった。不幸であっても、ひとは楽しくいることができるし、正常でいるよりは病んでいる方が、ひとの生きる道は楽しい。楽しくなければ、芸術は力を持たない。

生活のために、幸福になるために絵を描く、そこに画家は死ぬ。楽しさに幸福が台頭したとき、芸術家は死ぬ。だから優れた芸術家は、幸福というハリボテを警戒し敵視し、死ぬまで拒絶した人間と言えるかもしれない。

アカデミズムから離れたとき、ひとは本当の孤独に陥る。だが、いまさら指摘するまでもなく、孤独の道こそ正しいのである。


どうも、従来の価値観は、和合しないものであるらしい。価値観に揺すぶりをかけると、疑わしい偽物がぼんやりとわかってくる。愛、は存在しない。というと極端だから、「自己保存に与しない愛はない」と言っておこう。幸福もまた、まやかしである。善と悪という基準は、わずかに認めてもよいが、今後なくなるかもしれない曖昧で人工的基準だ、と指摘しておきたい。

ところでその半面光ってくる価値観もある。それが楽しさであったり、存在である。存在、being、在るということは、愛よりも、幸福よりも、はるかに大きい。というのも、それが地球だからである。われわれがいくらバベルの塔を築き上げようとも、地球の大きさからしてみれば一本の毛に過ぎないように、存在はあまりにも強大であり、その上になりたつ価値観は、あってもなくても変わらないものなのである。

まず、「在る」ということが人間の仕事なのである。「嘔吐」とはロカンタンがマロニエの根の「存在」に心を奪われてしまったお話である。「異邦人」は存在人ムルソーがバベル人間たちに断罪されて殺されるまでのお話である。

……となると、ぼくの現在の思考形態は、実存主義からの拝借となる。なあんだ、アカデミズムじゃないか。権威主義じゃないか。おまけに時代遅れだ。いまどきサルトルなんて……。

人間の思考なんて、拝借でしかないのかもしれない。でも、過去の本に没頭したことのない人間はいないだろうさ。

ひとりの作家がしばらくの間われわれの心をまったく独占し、ついで他の作家が占領し、そうしてしまいにはわれわれの心の中で作家たちがたがいに影響し始める。あの作家とこの作家を比較計量してみて、それぞれが他に欠けているよい性質、しかもほかのとは調和しないちがった性質を持っていることがわかる、とこのときじっさい批評的になり始めたのだ。こうして批判力が成長するにつれて、ひとりの文学者の個性によって心を占有されることがなくなってゆく。よい批評家――皆が批評家になるよう努めなければならない、批評を新聞の書評屋に任せてはいけないのだ――とは鋭い、持続性のある感受性と、識別力を増してゆく広い読書的知識を併せ持つ人である。……たがいにたいへんちがった人生観がいくつかわれわれの心の中に同居して、たがいに影響し合っている、われわれ自身の個性は自己を主張してめいめい独特な配置のしかたでそれぞれの人生観に位置を与えるのである。(「文芸批評論」/T. S. エリオット)

だから人間の精神なんていうのは、偉い人が同居しまくって、はじめて一人前なのである。


人間の精神はカエルの受精卵の発達過程によく似ている……とぼくはつねづね考える。


やっつけ仕事

原初の精神に、例えばニーチェが闖入してくるとする。これがファーストインパクトである。つぎにその敵手ともいえるカントを学ぶ。そして現代哲学が学びたいからフーコーを、暇だからヘーゲルを、座右の書としてパスカルを読むとする。こうして人間の精神は分裂し、成熟する。最後には、精神のなかに核ができはじめる。これが「自我」である。

こうして人間は精神を分化成長させる。人間は二度生まれる、ということである。

もっともこの場合は哲学というだけで、科学者でも、文学でも、それは構わない。

重要なことは、人間は原初の状態では核を持ちえないのであり、その状態でひとはぼうふらのように漂い、ロボットのように強制され、奴隷のように搾取されるしかないのである。ひとは本を読まねばならない。学習し、影響を受けていかなければならない。当たり前だが。

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