1.29.2015

見えざる手

世の中が汚い、醜いと考えてみても始まらず。日本国民が騙されているのだとか、洗脳されているとか、喚いてみても、空疎である。

ぼくは陰謀論者ではない。ユダヤ人が牛耳っている……というような、安易な答えに飛びつきたくはない。しかし、個人個人の悪意や怠慢が積み重なったときに、自然的に陰謀が発生することもありうる。それはアダムスミスの「国富論」のように、個々人の利益欲求が、「見えざる手」を作りだすかのようにである。

ウォルフレンの指摘するところによれば、日本の官僚たちは個々人のレベルでは非常に優秀で誠実なのだという。しかし、彼らは自分の在籍する省庁の権限を優先するあまり、国益を損ねることが多いのだそうだ。ここで興味深いのは、彼ら官僚たちは私欲にかられているのではなく、「ほんとうに国益のことを考えていた」ということである。つまり、省庁の権限を増幅することこそが国益に繋がる、というドグマが彼らを支配しているのである。

国益のためと信じて行動するが、かえって国益を損なう。そこには思考停止や倫理観の欠如がある。それはぼくらにも日頃持ちうるレベルの誤謬である。よかれと思ってやったことが、必ずしも良い結果を生むとは限らない。たとえば、子どものためを思って積極的に援助したが、それが「お節介」であり、子どもの健全な発育を妨げた、というようなことはよくあるだろう。

個々人の小さな倫理観の欠如、これくらいはいいだろうという逸脱が積み重なって、大きな流れを生むこともありうる。そして、大きな流れが大きなシナリオを生む。これは日本ではよくあることだ。

端的にいえば、原発が爆発したところで、だれも責任をとらないのである。ぼくは3.11からの報道を見ていて、もしかしたら、だれも責任を取らずに終わるのではないかな?という気がしていた。というのも、テレビに出てくる連中全員が「俺、悪くねーし」という顔をしているからである。それは現実になった。

おそらく、責任を取らないというより、取れないのだ。だれもが少しずつ悪さをしている。その悪さは、彼らの感覚からすれば、60km/h制限のところを70km/hで走った程度なのだ。「ほんとうに悪いのはあいつだ」という連鎖が、円環になっていて、もはや収拾がつかない。だから、ぼくらは口を揃えてこういうしかない。「原子力ムラが悪かったのだ」。つまり社会有機論ではないが、ぼくらは責任の所在を、原子力ムラの「見えざる手」に求めなくてはならないのである。

ともあれ、国民は日本のメディアの策略にまんまと引っかかるもののようだ。これは昔からそうなので、いまさら嘆いてもしかたないのだろう。大衆は、やはり、バカなのである。大衆は、バカにされているのである。畜群なのである。

ぼくが「Kenji Gotoはそもそも何ものなんだ?どうもただ者には見えない。ぼくらと同じような平凡な日本人とは思えない。それがKenji Gotoに共感できない理由だ。」というようなことを学食のからあげを食いながら言うと、学生諸氏は「ゴトウケンジはゼンリョウなるジャーナリストである」という大本営発表を繰り返して、うーむ、となる。最終的に錯乱したぼくが「あいむちゃーりー!」と叫ぶと「不謹慎だ」と冷めた口調で戒められた。

だから、ぼくは最近学んだのである。日本の大衆はバカで、メディアは容易に彼らをコントロールする、ということを、学んだ。もうこのことは前提であり、これに逐一憤慨することは、ぼくの血圧をあげるだけだということを、学んだ。大衆はアホで、騙されている。今後も騙され続ける。こんな当然のことを叫んでも、何も変わりはしないのである。

ぼくはすでに3.11でこれを学んだ。メディアは、大衆誘導のためのもの。政府は国民の生命をなんとも思っていない。

今日はたいへん酒を飲んでいる。ぼくはつねづねこう思う。コーヒーを飲んだとき、つまり交感神経が活性化されたときにぼくは夢を見ていて、抑制系のアルコールがはたらくときには、かえって現実を見るのである。

ぼくには、いま、やっと世界がクリアに見える。大衆はバカだ。もはや片鱗の同情も希望もあってはならない。大衆はバカで……ぼくは無力で……そうして、犯人はいない。これが事実なのだろう。人間はすべて、病気なのである。ぼくはこう思う。何もかも、救いようがない。正しい道だろうと、地獄への道だろうと、人間にはただ、漫然と進むことしかできないで、世界の行く末は、盲人の卓球に等しいのである。

また、くだらないことを書いた。何にもならない代物だ。

0 件のコメント:

コメントを投稿