1.04.2015

貧しさについて

私がおもに語りかけたいのは、あぶく銭をかき集めてみたものの、その使い方も捨て方もわからず、自分用に金銀製の足かせを鍛えている、見かけは金持ちだがあらゆる階層のなかでもぞっとするほど貧しい、あの階層のひとびとである。(ソロー「森の生活」)

世の中には貧しい人が増えた。

ところが、「そんなことはないよ。日本は豊かな国だよ。恵まれてるよ」と言うおバカがやたら多い。なので、いろいろ考えてみた。


コンビニの弁当を食べることは貧しい。チェーン店の牛丼も、また貧しい。料理をする時間がない。買い物にいく時間がない。どう料理すればいいかわからない。片付けをする気力がない、という。これは全て、貧しさの証左である。

コンビニの総菜パンがありえないくらい小さくなっている。チョコレートは本当にカカオが入っているのか、と疑いたくなるチープさ。乳製品は総じて高すぎる。ポテチはほとんど量がない。これらは、貧しさの証左である。

ストロング系のチューハイが定着したことは貧しい。酩酊のために口にする酒は、大変まずい。「しらふではいられない」から、酒を飲む。精神的に貧しくなっているのだ。(ぼくもたまに飲むのだが)

スマホのゲームをすること、くだらないテレビを見ることは貧しい。例え無料であっても、膨大な生活の時間が奪われていることに気づかない。日本人はパチンコに平均年間30万円費やしていて世界一のギャンブル狂だそうだが、これは心も貧しいし、財布も貧しくする。

日本のドメスティック(国内)ブランドのぺらぺらの服を着てる奴、これも貧しい。輸入品でも、たいていが輸入元の価格の二倍も三倍もふっかけている。日本の衣料品は本当に値下がりしないのでびっくりする。海外の通販サイトでは、セールで80%引きから、さらにクーポンで20%引きなど普通である(言っておくが、0%になるわけではない)。だからうまくすれば日本の価格の何十分の一で買える。このことを知らないで高い服を買わされている日本人は、貧しい。

白熱球の代わりに、蛍光灯をつけることは貧しい。昔ある女が、「私インテリアに凝ってるの」と言っていたが、部屋に行ってみると、確かに家具それぞれは凝っているが、青白い蛍光灯がすべてを台無しにしていた。まさに鼻白むという奴だ。明るさが豊かさの象徴だった時代をいつまで引きずっているのか。こういう人間にとって、レストランやバーよりも、スーパーの生鮮売り場の方が居心地がいいのだろう。つまり、感受性が衰えている。美や生活に対する感受性が欠如している。習慣に屈服している。
これは、貧しい。

同様にして、電柱だらけの町並みに文句を言わないこと、あらゆる地点において警報音や録音音声のガアガアうるさい日本の屋外すべて(電車、バス、エスカレーター、店舗、商店街、住宅街)の環境に疑問を抱かないこと、これもまた貧しい。騒音は暴力である。何度でも繰り返してやりたい。騒音は暴力である。

くだらない「じぇいぽっぷ」を聴くことも貧困である。別にテクノでも、プログレでも、ジャズでもクラシックでもそれは構わない。ただ「じぇいぽっぷ」は本当に粗悪品である。たまにコンビニで流れているのを聴いて、愕然とする。これのどこが音楽なのかと。こうしたものを好む人間は間違いなく何かに取り憑かれているのであり、したがって搾取される側の人間であり、これは貧しさを示す。
また、ハードロックは集団陶酔であるので、これは貧しい。(ごめんなさい)

ちっぽけなうさぎ小屋に住んで、クソ高い家賃を払っているのも貧しい。

子どもをつくらずに、働く女性。これも貧しい。女の幸せはどこにあるか、三秒考えればわかることである。

通勤一時間以上、満員電車、これは深刻な貧困である。通勤先の会社がブラック企業であれば、世界最悪レベルの貧困だろう。

一説によると、満員電車のストレスは戦場のストレスと同じくらいひどいとか。このように、PTSDクラスのストレスを抱えながらも会社に通うこと、これはとんでもなく貧しい。


以上、この世の大半の日本人は貧しかったのである。証明終わり。

ぼくらの過去の偉人たちは、ぼくたちが貧しい想いをしないように、すばらしい作品を遺してくれた。それがなくとも、海や森のような自然がぼくらに豊かな環境を与えてくれた。これらを味わうことが本当の贅沢である。

ところが大半のひとは、そんなものに目もくれず、汚くうるさい街に住み、金をどぶに捨てて、ガラクタや毒をかき漁っている。

なにも金を持つことが豊かさなのではないことは、上記を読めばわかるだろう。中流階級、年収1000万円程度の人間は、まだ貧しい。300万円程度の下流の方が、幻想を追い求めることなく、節約の楽しみを味わいながら、よい生活を送れるのかもしれない。

本当のよき生活とは、一冊の本、静謐な環境、木漏れ日、適度な仕事、たっぷりの余暇なのである。もっとも、これらはぼくにとってそうというだけで、人それぞれ違っていいと思うが。



ところで、先の中流1000万円・下流300万円という区分は間違っている。いまは300万円も稼げればいい方だ、ということになっている。が、わざとつけた。

2時間の通勤。12時間の派遣労働。日給6400円(-交通費)。ボロアパートに帰ってコンビニ弁当、ストロングチューハイ。この世を呪い、就寝。こういう貧困のモデルのようなひとが急増しているように感じる。これは間違いなく絶望的な貧困だ。

ぼくのような学生が、他人を貧困だと指摘することは正しくない、あるいは不快だ、という指摘がある。また派遣労働者のひとにしても、「俺はまともな社会の一員だ」「俺は幸福だ」と反発することがあるかもしれない。しかし、彼が貧しいことは事実だ。

問題は彼が貧しいのは自己責任ではなく、したがってぼくは彼の貧しさを責めたりあざ笑っているのではなく、日本の構造的な欠陥(ある意味で正しく機能した搾取の構造)に激しい怒りをもって抗議しているのだが、そんなことにも気づかないのであれば、これもひとつの貧困に数えることができるだろう。

ぼくのようなある意味で恵まれた人間が、貧しい人から目を背け続けた結果が、今の日本だと思うのだが? 違うだろうか。



参考:
電柱あるなし

以下2chがメイン
960 :(。´ω`。):2014/10/31(金) 06:32:22.39 ID:82Mt7KG2O>>613
おれセコムに勤めてたけどセコムにもシャワーはないんだ。
なんでかって言うとね、
昔はシャワーありの支社もあったの。
でも24明けだか36明けにシャワー浴びたら、心臓麻痺で死んじゃった社員が出たんで、
一切禁止になったんだってさ。
死ぬなら自宅で死ねって。 

都心部に通ってた頃、乗り換え一回で一時間半の通勤だった。
毎日々々クソ混んでる路線で、ある日キチガイ女とオッサンが俺のとなりで
キ「あんた触ったでしょ今!
オ「あぁ?!殺すぞババア!!
とか喧嘩はじめて、こんな蟹工船に揺られてちゃ俺も心を病むと思い、翌日からマイカー通勤にした。
月に5~6マンはかかったけど、心身病むのに比べたら安い。

『幸福の政治経済学―人々の幸せを促進するものは何か』
という著作を発表したスイスの経済学者ブルーノ・フライとアロイス・スタッツァーは、
「通勤パラドックス」と 呼ぶ傾向を明らかにしています。
それは、人は住むところを選ぶとき、長い通勤時間の苦痛を 過小評価するというものです。
つまり、たとえ45分余計に通勤時間がかかっても、部屋数が多く
芝生の庭も付いた郊外の家に住めば 幸せになれると人々は考えがちになるのです。
フライ氏とスタッツァー氏の計算によると、通勤に1時間を要する人の場合、
職場に歩いて通える人と同程度の満足度を得るためには、
その人よりも40%多くお金を稼がなければならないという。

会社でパワハラを受けてていて自殺も考えていた頃、母校の大学の研究室に1人で営業に行けと言われいったときの帰り
学生街のゆっくりな時間の流れ、楽しかった思いでが蘇り、道ばたで自然と膝をついて泣いてたわ
それから数時間後に辞表を作成した 

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