1.08.2015

愛について bLraiOnwaVshiEng


愛はないと仮定する。

愛はない。だが、愛という概念を作りたい。どうすればよいか。

無から有を作りだすことはできない。しかし、対称物をつくりだすことはできる。すなわち、0=-1+1である。これが万物創世の神秘である。

「+」は善であり、「-」は悪である。そして、愛は善である。悪とは愛のないことを意味する。ここに愛は住処を見つけた。そしてその次には、愛という呪詛が爆発的に広まった。

しかし、善悪の二元論は、空しい二項対立である。足し合わせれば消える。だから愛の発明家や活動家たちは、盛んにこう宣伝した。「愛せ」「善を行え」と。西洋において、キリスト教はこのために利用された、九割の真実と一割の毒素を交えてキリスト教は伝播した。

こうして愛はふくれあがり、同時に悪もふくれあがった。愛に感染したひとびとは、ますます善=愛を渇望したが、求めれば求めるほど、悪は大きくなった。

善なる世界は、悪を排除することにした。しかし善だけの世界に、善は存在することはできない。善は悪を求める。そこで善人たちは、自分以外に悪を見つけようとした。ここに善人たちによる悪の討伐が始まる。愛が暴力装置となるときである。

この遠征により、多くの原住民が殺された。とくに日本においては、縄文人が殺された。最近では、イスラム国の人びとがアメリカに殺された。そして、殺戮と同時にお約束のように愛が感染する。

いまでは、いたるところに愛がある。愛によって世界は征服されつつある。

しかし、エントロピーは増大する。善と悪はその静電引力により、いつしか和合する。愛は無に帰る。所詮、人の作ったものなんてはかないものである。自然の法則には勝てない。

この精算が行われたあとは、人間の生活は悪もなく善もなく、自然に生きることが可能になるだろう。人間は再び、動物と同じように、しなやかな美しい生きものになるだろう。これが超人である。超人はこう思うだろう。人類は2000年の間、悪夢を見ていたのだ。


ということを、考えていた。ちんぷんかんぷんだな。

孔子は「仁人は身を殺して以て仁を成すことあり」とした。仁とは愛であり、仁人とは愛を成すひとである。この意味は、愛に生きるためなら身を滅ぼさなければならないということで、つまりそれほど愛を実現することが難しいということになる。

そんな難しいのなら、辞めてしまえばいい。人間、すべてかなぐり捨ててしまった方が、うまくいくものだ。

ひとは何かをつけ足すことばかり考えている。テレビで納豆がダイエットにいいと流すと、翌日には売り切れる。ほんとうに痩せたければ、なにも食べなければいいだけなのに。何かをつけ足すことによって改善をこころみる。それが貧困の精神である。すなわち餓鬼道である。

最近、ルソーの「自然に還れ」という哲学が共感できてしかたがない。ルソーもまた、自由と孤独を愛するひとであった。

人間の魂の最初のもっとも単純なはたらきについて省察してみると、私はそこに理性に先だつ二つの原理が認められるように思う。
 
その一つはわれわれの安寧と自己保存とについて、熱烈な関心をわれわれにもたせるものであり、もう一つはあらゆる感性的存在、主としてわれわれの同胞が滅び、または苦しむのを見ることに、自然な嫌悪を起させるものである。
 
じつは、このほかに社交性の原理などをもってくる必要は少しもなく、右の二つの原理を、われわれの精神が協力させたり、組み合せたり、できることから、自然法のすべての規則が生じてくるように思われる。(「人間不平等起源論」)
 
今日書いたこの記事も、以下の文章に影響されている。 
人間にとってこの意味で「自然」な生活とは,「簡素で一様で孤独な(ル
ソー1755:47/傍点は越野)」生活である。人々は「定まった住居もなく,た
がいに相手を必要ともせず,恐らくは一生に二度会うか会わないかくらいで,
知りあうこともなく,話しあうこともな(ルソー1755:58)」いまま,「自然」
のみに従って孤独に生活している。他者との関係をもたないのであるから,こ
の段階の人間は「道徳」を知らないと想定されている。ルソーの思想はしばし
ば「性善説」と言われるが,誤解をおそれずに言えば,「自然状態」の人間は
の 「前社会的」であるがゆえに,前道徳的な存在として想定されているのである。(「ルソーの「自然」観念の二重性」越野章二)

まったく同意してしまう。この前社会的な自然状態こそ、ぼくの理想とする生活である。結局、ぼくの考えることなんてだれかが前に知っていることなのだな、と思う。

とはいえ愛についてはおもしろいのでもう少し考えてみたい。

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