1.07.2015

雑記 - CH3COOH

最近はどうも弛緩していて、不幸というのをあまり感じなくなった。日常は普通に輝いているし、天気の日は嬉しく、雨の日は嬉しい。

人間、不幸であることが正常なのか、幸福であるのが正常なのかは、わからない。仏教では「一切皆苦」であるし、ショーペンハウエルも、幸福は迷妄に過ぎないと切り捨て、その系譜であるニーチェはニヒリズムを説いた。

幸福とは何なのか、と考えると、これも前に愛について考えたときのように、迷妄ではないのか、と思わずにいられない。つまり、この世に幸福はない。ゆえに、不幸もない。だからこうした使えない抽象概念は、捨ててしまうのがいちばんいいのかもしれない。「幸」という漢字は象形文字で、人を束縛する手かせをかたどってるのだという。

とかく普通よしとされている言葉には気をつけなくてはならない。しつこいようだが、ぼくは町内会についての現実を知ったときに、ぼくの子どもじみた視界が、一気に開けたように思う。そこから、いかに日本という国がダメであるかを知った。

世の中には三種の人間がいるように思う。一種は「強者」であり、彼は世の中の矛盾を知りながら、矛盾を飲み込み、平気でそのなかで生きていけるひとである。

もう一種は「弱者」であり、ここにぼくは最近入ったのだが、世の中の矛盾に耐えきれず、距離を置こうとし、世捨て人になるようなひとである。

最後は矛盾自体に気づいていない「」がいる。べつに豚でもいいが。彼らは、強者でも弱者でもない。彼らは強者や弱者と比べて、あまりにも大量に存在するが、実のところ、存在しないに等しい。水分子がいくらあったところで、ぼくらにとっては手元の一杯の水に過ぎないのと同じである。

世の中は、矛盾ばかりである、普通知られている知識、学校教育で得られるもの、マスコミの流すもの、薄っぺらい紙切れのような歴史は、すべて偽りであったと思う。それはよくできた小説ではあるのだが、それ以上ではなかった。

ほん よめ

とは言っても、ぼくはネトウヨのようにネットの知識からこうした現実を知ったのではなかった。

実際のところ、多くの人間が衆愚を指摘している。大衆はバカだと、はばかりなく言い切っている。オルテガ、ニーチェ、フーコー、あとはル・ボンでもいいのだが、世間的に頭のいい人びと、真理に近づいたとされる人がこぞって大衆を批判する。

こうした現実が気になった、なぜこんなことになってしまったのか?大衆はなぜ知性を開花させることができないのか、と。人間は脳みそをもっている。その容量は大して変わらない。アインシュタインの脳は常人よりもむしろ小さかった。

人間はそれ自体、完璧なものである。だが、それをダメにしてしまうことは可能だ。歩かない人間の足がやせ細るがごとく、知性も使わなければしぼんでいく。

そうした生理的な衰退を、故意に利用するものもいる。それがひとつは権力のはたらきなのだろう、人間を知性的動物ではなく、家畜にかえてしまう力。それが権力である。

そうして権力のはたらき、実態をもって機能しているこの権力を考えてみると、ネットでよく言われるような「マスコミは嘘をついている」「日本はアメリカに支配されている」といった事柄が、事実のように思えてくる。

また、3.11で経験したような、情報統制や、子どもたちを無用に被爆させた為政者たちの不可解な行動も、説明ができる。本心はつかめないものの、ひとつの確たる事実は、彼らが日本国民を家畜のように考えているということである。

上記以外にも、「為政者と畜群」という構図を考えてみると、長年の疑問だったことがすんなりと氷解することがあった。おそらくこれは被害妄想ではなく、より真実に近しいのだろう。

ぼくはこの新しい視点をとくに絶望するでもなく、いたって平静に受けいれたのだが、その瞬間、ぼくはひとつのイニシエーションを感じた。自分という人間が変わったのである。そうして、ぼくは前述の「羊」から「弱者」になった。この変化が昇格か降格なのかはわからないが、柵の外に出てしまったことは確かだ。


ところで、前に「愛」について考えた、あれはクソみたいな文章になってしまったのだが、きっちりと辛抱強く考えればすばらしい本が一冊書けるのではないかという気がしている。実際、「愛はないんだ」と知ったときは、小躍りしたくなるような喜びに包まれた。その喜びは、どちらかといえば精神の内奥からくるものであったので、おそらく真実に近いのだと思う。

最近思うのは世の中には不必要なものが多すぎるということであるが、実のところ、ものだけでなく概念にも不要なものが多いのである。愛はない。愛はないと考えてみると、世の中はすっきりする。

ぼくらはある概念があると、それに対処するよう思考がはたらく。「愛」という概念が与えられたならば、これは愛だ、これは愛ではない、愛すべきなのか、愛されるべきなのか、という風に思考する。

言葉は道具である。ぼくらは道具を前にするとまず「使う」ことを選ぶ。ところが、それが「存在するのか、存在しないのか」は目がいかない。

トンカチのような道具は、たしかに存在する(ややこしい哲学的解釈はいらない)。ところが言語=抽象的な概念は、それが存在しないということがありうるのである。

愛という概念は、多くのひとびとに共有されているから、疑問にも思わない。しかしその実態は無である。存在しないものから無理矢理捻出した概念は、これはオカルトと変わらない。

ぼくらはコモン・センスのなかで、愛という設計図をやりとりしている。しかしそれは欠陥があるので、だれも作りだすのに成功しない。これがトリックである、この世界に愛は存在しない。よって、ぼくらは滑稽な錬金術師に落ちぶれる。

愛という言葉はキリスト教が発明した呪詛である。愛によってひとはひとに縛られる。こうして人間たちのいびつな凝析物ができあがる。パノプティコンの看守にとっては、とても扱いやすい囚人ができあがる。

キリスト教によってローマ帝国は滅びたと言われることがある、それが事実なのかもしれない。キリスト教は愛の宗教である。愛の宗教が生みだしたものは、とんでもない放蕩の世界であった。「余計なもの」の世界であった。それは、人が殺し合うような見せものであり、脈絡のないセックスであり、豪勢な食事であり、貴族たちは味覚を満足させるため、食べては吐き、吐いては食べた。

余計なものが、余計なものを産み、連鎖してゆく。これが現代に通じる毒素であり、ガンである。


以上散漫に書き綴った。しばらくこうしてだらだら書くことがなかったので、勝手にひとりで楽しんでいる。


す しお ふろ

今日の雑記の「CH3COOH」は酢酸を意味する。こうして書くと、上下がシンメトリーで美しい形をしている。丸みをもったC, O, 3と、引き締まるようなHのバランスがいい。陰陽の調和というべきか。

そんなことはどうでもよくて、最近は「酢の風呂」に入るようにしているのである。

手順は簡単で、風呂に、酢をコップ一杯いれるだけ。

酢は消臭効果があるといわれている。民間療法だが、ワキガのひとに有効であるとされている。また酢には弱い界面活性のはたらきがあって、洗浄力もあり、弱酸性で殺菌効果ものぞめる。ちなみに匂いはそこまで気にならない。

ついでに塩を何十gか加えると、これは冷え性対策になる。足先までぽかぽかになる。また塩にも多少、洗浄効果があるようだ。

この酢+塩風呂に長く浸かっていると、身体のほとんどの汚れが落ちてしまう。浴槽のなかでよくすすげば、髪の汚れも落ちる。信じられないかもしれないが、シャンプーはいらない。軽くシャワーですすぐだけで快適になる。

酢は業務スーパーで80円/500ml、塩は50円/1kgなので、それなりにコスパはいい。

ぼくはこれで肌が良い感じになって、身体のあちこちが痒いのがなくなった。自分ではわからないが、たぶん体臭も軽減したのではないかと思う。また、髪にコシが戻って、妙にふわふわになった。頭皮のかゆみもなくなった。たぶん、シャンプーが悪さをしていたのだろう。

ようはシャンプーも「余計なもの」なのである。愛が消費社会を作り、消費社会がシャンプーを作った。ここにも、余計なものの連鎖があるということだ。

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