1.12.2015

Möbius Loop

最近の日常はどうも流れて消えてゆく類のものらしい。

もう何も必要なく、何も怖れることはない。

そういう境地に辿り着こうとしている、という気がする。


ぼくの大学生活はもうすぐ終わることになっている。それからぼくは就職してはたらくことになる。目に見えていることだが、仕事は嫌であり、退屈だろう。仕事はぼくをひきこもりの生活から引っぺがすだろう。おそろしい退屈な円環のなかにぼくは放りこまれる。

ぼくはまだ、somethingになるという夢を捨ててはいない。つまり、特別である人間。話題になるべき人間。ただ、考えてみると、何かをゴテゴテに飾り付けること……例えば、年収2000万円とか……東大を出たとか……こういうことは、空虚である。

この世で特筆すべき人間は、「自分である」人間であり、その意味では、タイトルの汝自分を知れという標語は、実に的を射ている。(自画自賛)

ここ一年ばかり、ぼくは自分のなかを探求した。自分は何ものかを知ろうと思った。

ところが、自分のことを知ろうとしていくうちに、どんどん他者や自然環境に広がっていった。自分の核心を求めて、観察、凝視していくと、かえって無限の広さを見つけたのである。

自分の精神の内奥の潜在意識の底の底には、薄明かりがぼんやりと見えて、注意深く潜っていくと、そのあかりは小さな穴であって、驚くべきことに、その下には大空があり、さらにその下には、大地と海があった。そうして、大地には他者がいた。

自分のなかに他者がいる。

つまり、ぼくら人間はメビウスの輪である。自分というものを辿ると、他者になる。他者を辿ると、自己に行き着く。人間だけではない。自然や環境も、自己である。




表もなく裏もない。自己は全てであり、自己はひとつである。自己は世界である。



ぼくの生活は最近楽しい。近頃、幸福という言葉がうさんくさく感じたので、それでは幸福ではなくより真実に近い言葉はなにか、と考えると、「楽しい」という言葉に行き着いた。

楽しいという状態がなにを示すか。それは存在しているということだろう。

存在する。これが第一義であり、すべてである。善悪とか、幸不幸は、些末な指標でしかない。ぼくらはまず存在しており、各々その存在の程度がある。存在を十分に発揮しているひとの生活は楽しい。存在が不十分なひとは、つまらない。

この「楽しい――つまらない」の指標は、善悪とか、幸不幸よりもより根源的で、真実に近いと思う。

というのも、つまらない人間であっても、善であったり、幸福であることはできる。しかし、彼らの人生は楽しくない。存在の程度は低く、あってもなくても変わらない。

彼らは存在を無理に押さえ込んでいる。善悪や幸不幸という価値基準が、存在を否定していることになる。

ところが、存在がまずすべての始まりであり、存在がすべての前提である以上、そのうえに成りたつ善悪、幸福がドグマ的な価値基準をもつことは、本末転倒である。ここに、現代道徳の矛盾がある。

存在が充溢している人間は、幸福にあっても、不幸にあっても楽しく、また彼には、善も悪もない。

存在するためには、自己が自己に立脚しているということが必要だ。つまり、外的な指標、年収とか学歴のような、メディアや教育の押しつける価値観を離れることだ。ただ自分の欲求に従い、動く人間には、善もなく悪もなく、幸福も不幸もない。

ぼくらは獅子がうさぎを食い殺すとしても、それを悪だと思わない。また、ぼくらは自然にある木々を見て、それらが幸福だとか、不幸だとは思わない。それは「在る」のである。

ところで、人間は自殺することがあるが、これも存在とその他の価値基準の逆転によるものだ。動物は決して自殺しない。「こんなに不幸なら死んでしまえばいい」「生きていても迷惑だから死んだ方がいい」これらの逆転した思考様式は、教育とメディアのような洗脳システムのたまものである。日本人はとくに自殺が多いが、それは構造主義的に考えれば、自分で死んでいるのではなく、殺されているのである。

もはや第三者の視点で自分を見て、他者の物差しで自分を批評しない人間。ただ自分だけの欲求に忠実である人間。このようなひとが、存在しているといえるのだと思う。

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