1.16.2015

zacking

風邪を引いた。

昨日「悩みなどひとに話すな、それが処世術だ」、と言ったが、ここでのぼくは愚痴ばかりだ。

まあネットの環境ならいいのだ。

ネットの対人関係は、極めて楽で、理想的だと思う。ぼくはまず、他人の顔を見ることが苦手で、視線恐怖症といってもいいのだが、できることなら他者と会話するときには、ついたてを挟みたいくらいなのだ。

しかし、文章においては、こうして適当になんでも書ける。おまけに、つまらない文章を書いても、嫌みな顔や、とりつくろった笑顔で返されることもない。

ぼくは虚空に向かって書き続けるのである。つまり、ぼくはただ文章を書くために書いているのであり、なんらかの目的や、対象、条件が介在することはなく、純質のものを書きたいと思っている。

そうであるから、いろんな作家の文章を吟味することはあっても、それを真似しようと思ったり、そこから教訓を得ようという気にならない(勝手に似てしまうことはある)。また、だれかの気に入られるようなことを書こうという気がしない。

当然、ほとんど賞賛もなく、なんの報酬も入ってこないのだが、それはそれで、いいのである。

昔好きだったひとにchikirinという社会派ブロガーおばさんがいる。ぼくは彼女の文章がたいへん気に入って、数年分のすべての過去記事を読んだことがある。そのなかに、「『すごい』と言われたら『ヤバイ』と思え」とあって、実に味わい深い言葉だと感じた。成功こそ、落とし穴なのである。そもそも、評価されることは決してすばらしいことではない。アマゾンを見ていると、とんでもなくつまらない本が、星五つだったりする。

音楽の練習についても同様で、ぼくは楽器との「直接的な対話」を重んじている。

ぼくらのもとめる音楽は楽譜でなく、楽器と、自己の内奥にすでにあるのであり、そこに何ものも介在しないとき、真の音楽を味わえる。というわけで、観客はときに邪魔でしかないし、共演者すらいらないということも多々ある。大部分の音楽家は個人練習こそが「音楽」であり、コンサートやセッションは余興にすぎない、といっている。(もっともぼくはド素人なのだが)

人間の成長とは、何かを得ることではなく、何かを捨てることだ、ぼくらは芸術作品に触れるとき、精緻なテクニックや表層的な理論に感銘を覚えるのではない。芸術はしょせん、媒介であって、人間の潜在意識と、潜在意識が共鳴しあう、ここに芸術の価値がある。

ということは、絵などの作品を前にした瞬間の想念としての「良」と「否」こそがすべてであり、それ以外のすべては、無味乾燥の後付けでしかない。

もっとも、他者の評価を気にしないと食っていけない、という実情があるだろう。そうなると、才能が貧困によって潰されることになる。かつて、成功した実業家は芸術家のパトロンになりたがったものだが、こうした関係が、本来望ましいものだと思う。(もっともニジンスキーのような悲惨な例もあるが)

金はあるが、芸術的なセンスがないひとがいて、金はないが、芸術に長けているひとがいれば、それは相互に助け合うのが自然である。

ところが、ぼくらの住む日本という国では、このような自然なつながりは見たところ破壊され、助けるべき人間を助けることはしないようだ。日本人はきちんと列に並ぶ一方で、貧相な格好をした派遣労働者やシングルマザーに対しては「負け組が」と毒づくのである。

と、よくわからない日本批判で今日は終わる。風邪だから頭が回らないのである。

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