2.14.2015

1=1の世界と1=0の世界

この世にはふたつの世界があると考えるとわかりやすいのかもしれない。

ひとつはフィヒテの有名な定理「1=1」に基づく世界であり、もうひとつはそこから外れた「1=0」の世界。

なお、この考え方は、木村敏「異常の構造」からのパクリである。これを展開させたい。

ぼくらの科学の根源は、「1=1」という定理が前提にある。別に数学だけに限った話ではなく、論理学の大前提となる定理である。そうして論理的でない科学はないのであるから、科学においてはすべて「1=1」である。

では非科学の世界においては、どのような公理がはたらいているかというと、「1=0」なのである。木村敏によれば、精神分裂病の患者はこのような世界を生きているのだという。

精神分裂病とはぼくには単なる病気とは考えがたい。古来であればシャーマン、巫女、つまり霊能者や宗教家、予言士という役割をもっていた存在と考えている。彼らは1=0の思考様式で、儀式や予言をこなしてきた。

古来の数学者が素朴にも考えたように、科学によって神の声を聞くことは不可能だったし、未来のこともいまだわからない。

ともかく、世の中を1=1の尋常的世界と、1=0の異常な世界にカテゴライズすると見えてくるものがある。

1=1という世界は、公正明大であり、普通だれにでも理解可能であり、したがって平等なものである。それは「公理」と呼ばれるものである。ということは、広くだれもが認める論理である。そうして、「常識」というものもここに含まれる。

1=1の世界には、文明的なものはあらかた入ってしまう。経済もそうだし、法律や政治もそうだ。政治といえば、民主主義というものは1=1思想の極端な例である。常識や公理の信奉だからである。

なお、カントやプラトンもこちら側だ。プラトンは民主主義を否定したけれども、こちら側なのである。カントは「知的直観は神に属するものであって人間に属するものではない」とか言ったが、この考え方は1=1に属する。

では1=0の世界はどうだろうか。ここに入るものは、上にあげたような宗教家、霊能者というものがまず入るだろう。

ただ、キリスト教的な宗教家はすこしずれるのかもしれない。キリスト教は明確な1=1の思想をもつ特異な宗教だからである。キリスト者は熱心に魔女狩りをしたから、そこからもこうした精神様式が伺える。ともかく土着の信仰や仏教、古神道のようなものは1=0であった。

宗教家以外はどうかというとこれは俄然おもしろくなる。おそらく芸術家という職業は1=0である。「創造」という行為を意志するとき、ぼくらは常識にとらわれていては仕事
にならないことを知っている。

こうした仕事をするときに、ふだんは常識的世界にある1=1の世界のぼくらは、いったん思考を解体し、1=0の非論理的世界に飛びこんでゆく。そこは暗く恐ろしいカオスの世界だけれども、恵み深い宝物も多く存在するのである。そうしてぼくらは天恵ともいえるアイデアをもって生還する。

すなわち、画家、音楽家、小説家、脚本家、あるいは飛躍的な成果をあげる科学者や哲学者といったものはすべて、1=0を生業とする人間である。これらの職業は、明確に「才能」がいる分野である。公理はなく、平等ではない。

さて、この世で生きていくためには完全に1=0の世界に浸ってはならない。非論理の世界から戻ってこない人間は狂人だからだ。古来このような人間が神の使いのように扱われたとしても、現代においてはただの治療すべき統合失調症なのである。

確かに<狂人>と芸術家(および思想家)のいずれもが、意識と身体の深層の最下部まで降りていって、意味以前の性の欲動とじかに対峙し、この身のうずきに酔いしれる。しかし後者は、たとえその行動と思想が狂気と紙一重であっても、必ずや深層から表層の制度へ立ち戻り、これをくぐりぬけて再び文化と言葉が発生する現場へと降りていき、さらにその欲動を昇華する<生の円環運動>を反復する強靱な精神力を保っている人びとなのではあるまいか。(「言葉・狂気・エロス」)

深く潜った方が良い宝物が得られるが、その次にはぼくらは「帰ってこなければいけない」。これが芸術家の義務である。

哲学者のなかでは、デュオニソスを崇拝したニーチェが恐らくこの1=0の価値を知っていたに違いない。ニーチェは最後には発狂したが、深く潜りすぎてしまったのかもしれない。

病跡学においては、天才はつねに病人であった。それはてんかん、躁鬱、神経症、統合失調症など、およそほとんどすべての天才が精神病を持っていた。このことの意味は、彼らが1=0、すなわち異常の世界の仕事をしていたという事実があるのみであり、精神医学の1=1、常識の世界からみれば特異であり病気であった、というだけにすぎない。



世界―歴史の動きを見てみると、上記のような1=1と1=0のイデオロギーの熾烈な戦いだった、と考えてみるとおもしろいかもしれない。それは何も魔女狩りだけではない。第二次世界大戦だとか、最近の中東における戦争についても、そういえるのかもしれない。

資本主義はひとつの1=1である。民主主義は1=1である。ぼくらは無思考に民主主義を崇拝することがあるけれども、しょせんはひとつのイデオロギーであることを知っていなければならない。(では共産主義や寡頭政治が1=0なのか、と言われると微妙なところだが……)

そして、このイデオロギーの戦争ではだいたい1=1が勝利する。見かけ上この世界のほとんどは1=1に支配されている。「常識」は嫉妬深い犬のような注意深さで異常を見つけ、叩きつぶすものである。

ただ、表面的な洗脳に人間の精神が負けることはあまりないので、抑圧された1=0の勃興がいずれ訪れるかもしれない。そのときのことを考えると、ぼくは少し楽しみになる。

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